2026年8月23日の深夜、関東を強い揺れが襲いました。
震源は茨城県南部。
マグニチュード5.9、最大震度5弱を観測した地震です。
これだけなら、「関東でまた大きめの地震が起きた」というニュースで終わっていたかもしれません。
ところがSNSでは、地震とは直接関係のないはずの名前が急速に浮上しました。
平将門公です。
「将門公がお怒りなのではないか」
「よりによって、このタイミングで茨城県南部なのか」
「平将門の乱の舞台と重なって見える」
そんな声が次々と投稿され、ちょっとしたオカルト騒ぎになっていきました。
もちろん、地震と平将門公を結びつける科学的な根拠はありません。
地震は地震です。
そこは最初に、きちんと分けておきたいところです。
ただ、今回の一連の出来事を調べていくと、「地震が起きた」という一点だけでは終わらないんです。
地震が起きる4日前、東京・大手町の将門塚で、かなり不敬と受け取られても仕方のない配信が行われていました。
その映像がSNSで炎上。
警察への相談が報じられ、本人側から謝罪が出て、所属グループからも処分が発表されます。
そして、その間の関東では記録的な豪雨が相次ぎました。
さいたま市では住宅浸水や多数の道路冠水。
翌日には東京・埼玉で1時間100mmを超える猛烈な雨が解析され、道路陥没や車両の浸水なども発生します。
その雨が過ぎた直後。
8月23日の午前2時、今度は地面が揺れました。
震源として発表されたのは、平将門公と深い縁を持つ土地を抱える茨城県南部です。
将門塚での騒動、記録的豪雨、そして深夜の地震。
一つひとつには、それぞれ現実的な原因があります。
それでも時系列で並べると、「本当に全部ただの偶然なのだろうか」と一瞬考えてしまう。
今回の話の面白さは、まさにそこにあります。
ここからは、史実として確認できること、実際に起きた災害、古くから残る伝承、そしてオカルトとしての想像を分けながら、一つずつ辿ってみましょう。
答えを決めつけるつもりはありません。
最後まで読んだあと、この数日間をどう受け取るか。
そこは、あなた自身で判断してみてください。
すべての始まりは、将門塚で起きた“不敬な配信”だった
今回の話を地震から始めると、一番大事な部分を見落とします。
少しだけ時間を戻しましょう。
2026年8月19日、東京・大手町。
高層ビルが立ち並ぶ日本有数のオフィス街に、その場所はあります。
平将門公を供養する「将門塚」です。
今回の一連の騒動は、ここから始まりました。
平将門公を祀る将門塚で何が起きたのか
問題となったのは、ライブ配信サービス「Kick」で行われた男性配信者による配信でした。
所属していた配信者グループ「キッカーズ」の公式発表によると、愛之助氏は8月19日の配信で、大手町の将門塚において石碑に登るなどの迷惑行為に及んだとされています。
SNS上で拡散された映像では、石碑に抱きつきながら奇声を上げる様子も広まり、大きな批判を集めました。
映像を見て、反射的に「いや、それはさすがにやめておいたほうが……」と思った人も多かったのではないでしょうか。
ただ、私はここについては、祟り以前の話だと思っています。
霊を信じるか。
オカルトを信じるか。
平将門公の怪異伝承を信じるか。
そんなものは、いったん横に置いてもいいんです。
誰かが長い年月をかけて守り、今も人が手を合わせている場所によじ登って騒ぐ。
普通に考えて、それはやらないほうがいいですよね。
石碑によじ登り奇声――SNSで「よりによって将門公の前で…」と炎上
映像が広がると、批判は一気に強まりました。
中でも目立ったのが、「なぜよりによって将門塚でやったのか」という反応です。
ここが、普通の迷惑配信とは少し違います。
公園や路上で騒ぐのも褒められた行為ではありませんが、将門塚となると受け取られ方がまるで変わります。
将門塚には、平将門公をめぐる数々の伝承があります。
塚を粗末に扱った。
場所を動かそうとした。
工事を進めようとした。
その後、関係者に妙な出来事が起きた――。
そんな話が何十年、何百年という単位で語り継がれてきました。
オカルトに興味がなくても、「東京で下手に触らないほうがいい場所」として将門塚の名前を聞いたことがある人はいるかもしれません。
そんな場所によじ登り、大声を上げる。
映像を見た人たちが「そこだけはやめておけ」とざわついたのは、単なるネット上の悪ノリだけではなかったのでしょう。
実際、将門塚の保存に関わる側も事態を放置せず、神田神社が丸の内警察署へ相談していると報じられました。
ネット民が勝手に「罰当たりだ」と騒いで終わった出来事ではなかったんです。
配信者はその後どうなった?騒動を時系列で整理
ここまで読むと、「結局この配信者はその後どうなったの?」と気になりますよね。
今回の騒動は、将門塚で配信して終わりではありませんでした。
確認できる範囲で、配信者をめぐる流れだけを整理してみましょう。
- 8月19日:愛之助氏が東京・大手町の将門塚で配信。キッカーズ公式も、石碑に登るなどの迷惑行為があったと発表。
- 8月20日ごろ:問題の配信映像がSNS上で広く拡散。「罰当たりすぎる」「よりによって将門塚で……」と批判が強まる。
- 8月21日:将門塚保存会の事務局が置かれている神田神社が、今回の迷惑行為について丸の内警察署へ相談していると報じられる。
- その後:愛之助氏本人名義のSNSアカウントから、歴史・文化・信仰の場への配慮を欠いた行為だったとして謝罪が投稿される。
- 8月22日:所属していた配信者グループ「キッカーズ」が愛之助氏の脱退処分を公式発表。
キッカーズ公式は同じ発表の中で、礼拝所不敬罪・公然わいせつ罪による在宅起訴や、Kickアカウントの999年BANについても記載しています。
ただし、この部分については警察・検察やKick公式から独立した確認を取れていないため、「キッカーズ側がそう発表している情報」として見ておくのが安全です。
それでも、8月19日の配信からわずか数日の間に、炎上、警察への相談、謝罪、所属先からの処分まで進んでいたことになります。
かなり濃い数日間ですよね。
ところが、この期間に関東で起きていた出来事は、それだけではありません。
配信騒動が燃え広がっていた21日と22日。
今度は空模様が一気に荒れ始めます。
祟り以前の問題――千年以上、人が手を合わせてきた場所である
その前に一度、平将門公への敬意について触れておきたいです。
将門公というと、「日本三大怨霊」「祟り」「首塚」といった怖い言葉ばかりが先に出てきます。
でも、それだけで語ってしまうのは少し違います。
平将門公は千年以上も前に生きた人物でありながら、今も各地で神として祀られ、ゆかりの社寺や史跡が残っています。
怖がられているだけなら、これほど長く人は手を合わせ続けません。
そこには恐れだけではなく、信仰や敬意、土地の人々の思いがあります。
だから「祟られるから悪さをするな」という話だけではないんですよね。
人が長い時間をかけて大切にしてきた場所なら、その背景をすべて知らなくても敬意を払う。
本来は、それで十分なはずです。
現代だからこそ、一連の出来事は「炎上」「謝罪」「処分」といった言葉で語られています。
でも、将門公への畏敬が今よりはるかに強かった時代なら、同じ光景はどう受け取られたでしょうか。
少なくとも、笑いながら再生数を眺めていられるような話ではなかったでしょう。
地震だけではなかった――その間、関東では記録的な豪雨と浸水被害が相次いでいた
ここで、8月19日の将門塚騒動から23日の地震までの間に起きていたことへ目を向けてみます。
実はこの期間、関東では空もかなり荒れていました。
8月21日と22日、関東各地で猛烈な雨が相次ぎ、住宅浸水や道路冠水など実際の被害が発生しています。
もちろん、大雨には大雨の気象学的な原因があります。
これを将門公と結びつける科学的な根拠はありません。
そこは地震と同じように分けて考えます。
ただ、「将門塚で騒動が起きたあと、4日間何もなく突然地震が来た」というわけではなかった。
この事実は、記事全体の時系列を考えるうえでかなり重要です。
8月21日、さいたま市付近で1時間に約110mmの猛烈な雨
まず大きく天候が荒れたのが、8月21日の夕方でした。
さいたま市付近では、午後4時20分までの1時間に約110mmの猛烈な雨が降ったとみられ、記録的短時間大雨に関する情報が発表されています。
1時間110mmと言われても、数字だけでは実感しにくいですよね。
でも、これは傘を差して何とか移動しようという雨ではありません。
排水が一気に追いつかなくなり、低い土地や道路が短時間で冠水する危険があるレベルです。
実際、さいたま市が8月24日に発表した最終報では、人的被害こそ確認されなかったものの、床上浸水3件、床下浸水3件、道路冠水48件が確認されています。
公共施設の被害も7件。
消防には車両などの水没や家屋への浸水に関する通報が入り、車両水没では救助出場もありました。
道路に水がたまり、車が動けなくなる。
家へ水が入る。
「夕立がすごかったね」で終わるような雨ではなかったことが分かります。
翌22日は東京・埼玉へ――板橋区付近で1時間120mm以上
翌日の8月22日。
今度は東京都と埼玉県南部で猛烈な雨が相次ぎます。
東京・板橋区付近では、午後5時までの1時間に120mm以上の雨が降ったと解析されました。
北区付近や埼玉県戸田市付近でも約100mm。
豊島区付近でも約100mmの猛烈な雨が解析されています。
東京と埼玉の複数地点で、ほぼ同じ時間帯に100mm級の雨です。
数字を並べるだけでも、かなり強烈ですよね。
東京23区の一部や周辺地域では大雨に関する高い警戒レベルの情報も出され、河川では氾濫危険情報も発表されました。
空が暗くなったと思ったら猛烈な雨が降り、短時間で道路へ水があふれていく。
普段見慣れた都市の景色が、一気に変わってしまうような雨でした。
道路陥没、車両浸水――雨は実際の被害を残した
22日の豪雨では、東京や埼玉で車両の浸水などが相次ぎました。
東京都千代田区では工事現場近くの道路が陥没し、信号機が傾く被害も報じられています。
飲食店などで浸水被害も確認されました。
さらに戸田市は8月22日の大雨について、り災証明書・被災証明書の申請受付を8月24日から開始すると公式に案内しています。
SNSに冠水動画が流れただけではなく、自治体が正式に被災者対応へ入る規模だったわけです。
そして戸田市の防災情報を見ると、少し印象的な並びがあります。
8月22日の大雨。
その翌日、8月23日午前2時ごろの地震。
住民の立場で想像してみてください。
夕方には猛烈な雨。
道路は冠水し、浸水を心配する。
雨が落ち着き、ようやく眠りについた深夜。
今度は地面そのものが揺れる。
かなり落ち着かない夜だったはずです。
将門塚騒動→豪雨→地震――あとから並べると妙に気になる4日間
ここで、一連の時系列をまとめてみましょう。
- 8月19日:東京・大手町の将門塚で問題の配信。
- 8月20日ごろ:配信映像がSNSで大きく拡散し炎上。
- 8月21日:さいたま市付近で1時間約110mmの猛烈な雨。住宅浸水や道路冠水が発生。
- 8月22日:東京・埼玉で再び猛烈な雨。板橋区付近では1時間120mm以上、北区・戸田市・豊島区付近でも100mm級の雨。
- 8月23日 午前2時00分:茨城県南部を震源とするM5.9、最大震度5弱の地震。
改めて見ると、19日から23日までの間に関東ではかなりいろいろなことが起きています。
ここは強調しておきます。
将門塚での行為と豪雨を結びつける科学的な根拠はありません。
豪雨には豪雨の原因があり、地震には地震の原因があります。
「将門公が雨を降らせ、そのあと地震を起こした」と事実のように語ることはできません。
でも、これはオカルトを楽しむ記事でもあります。
ほんの少しだけ想像を許すなら、気になるんですよね。
将門塚で騒動。
そのあと関東で2日続けて猛烈な雨。
街では浸水や道路冠水。
そして雨が過ぎた深夜、今度は地震。
「偶然にしては、やけにいろいろ続くな……」
そう感じたとしても、不思議ではありません。
しかも、本当にネットをざわつかせたのは地震が起きた“場所”でした。
そして午前2時――茨城県南部が揺れた
猛烈な雨が関東を通り過ぎた、その夜。
日付が変わった8月23日。
多くの人が眠っている時間に、今度は関東の地面が揺れました。
時刻は午前2時00分。
気象庁によると、震源は茨城県南部。
マグニチュード5.9、震源の深さは68kmで、最大震度5弱を観測しました。
震度5弱を観測したのは茨城県だけではありません。
埼玉県、千葉県、東京都でも震度5弱となった地域があり、関東の広い範囲で強い揺れを感じる地震でした。
M5.9・最大震度5弱――科学的には説明できる地震
ここはオカルトを抜きにして、まず事実だけ見ておきましょう。
気象庁は、この地震について太平洋プレートとフィリピン海プレートの境界で発生した逆断層型の地震と説明しています。
震源の深さは68km。
つまり地震そのものには、きちんと地震学的な説明があります。
将門塚で誰かが何かをしたから地震が発生した――そんな因果関係を示す科学的な証拠はありません。
豪雨についても同じです。
ここを曖昧にしてしまうと、オカルトではなく単なる事実誤認になってしまいます。
ただですね。
今回妙なのは、「原因が説明できない」ということではないんです。
原因は説明できるのに、その発生日時と場所を直前の出来事へ重ねると妙に物語ができてしまう。
そこなんですよね。
眠っている人間を驚かせるには、あまりにも印象に残る時間
午前2時。
多くの人が眠っている時間です。
しかも、前日の夕方には豪雨に見舞われた地域もあります。
ようやく雨が落ち着いた。
片づけは明日にしよう。
そう思って寝床に入った人もいたでしょう。
そこへ緊急地震速報と揺れです。
静かな深夜だからこそ、昼間とは違う怖さがあります。
最大震度5弱は、決して軽く扱っていい揺れではありません。
実際に人的被害やライフラインへの影響も報じられています。
だから「絶妙な震度だった」「ちょうどいい揺れだった」などと言うつもりはありません。
そのうえで、これはオカルトとしての想像です。
もし誰かが今回の地震を「警告」と見るなら。
多くの人が眠っている深夜に、関東の広い範囲を一気に揺らす。
人々に「何が起きた?」と意識を向けさせる。
そのタイミングは、あまりにも印象的でした。
「待てよ、茨城県南部って…」将門公との意外な接点
そして、ネット上の空気を決定的に変えたのが「茨城県南部」という地名です。
平将門公といえば、東京・大手町の将門塚ばかりが有名ですよね。
そのため、「将門公の話なのに、震源は茨城県でしょう?」と思った人もいるかもしれません。
ところが地図を少し広げると、話が変わってきます。
茨城県南西部に位置する現在の坂東市周辺は、平将門公との縁が非常に深い地域です。
坂東市には、石井営所跡、國王神社、延命院の胴塚など、将門公にまつわる史跡や伝承地が数多く残されています。
「将門公=東京の首塚」という印象だけで見ていると見落としますが、将門公の生涯そのものは茨城の地と切っても切れません。
ただし、ここは誤解しないようにしましょう。
気象庁が示す「茨城県南部」という震源区分と、坂東市の将門公史跡が完全に同じ一点にあるという意味ではありません。
SNSで使われた「完全一致」という言葉も、地理的な完全一致が科学的に確認されたという意味ではありません。
それでも、将門公と深い縁を持つ土地を抱える地域の近くで、このタイミングに地震が起きた。
そこに反応した人がいたのは、分からなくもないですよね。
SNSで「平将門の乱と重なる」と騒がれ始めた理由
SNSでは、今回の地震と平将門公が活動した地域を地図上で見比べ、
「平将門の乱の舞台と重なって見える」
とする投稿も拡散しました。
ここで話は、単なる地震ニュースではなくなります。
数日前には東京の将門塚で騒動。
その間に関東では猛烈な豪雨。
そして雨の翌深夜、M5.9の地震。
震源は茨城県南部。
調べてみれば、茨城には将門公ゆかりの土地が数多く残っている。
さらにネットでは、千年以上前の将門公の足跡まで引っ張り出される。
一つひとつなら、すべて偶然と説明できます。
でも、偶然が縦に並ぶと、人はそこに物語を感じてしまうものです。
では、そもそもこれほどまでに名前だけで人をざわつかせる平将門公とは、どんな人物だったのでしょうか。
「日本三大怨霊」という一言だけでは、かなり大切な部分が抜け落ちています。
そもそも平将門公とは何者だったのか
平将門公と聞くと、まず「日本三大怨霊の一人」を思い浮かべる人も多いでしょう。
確かに、後世の伝承では将門公は強大な怨霊として語られてきました。
でも、そこで説明を終えると、この人物の面白さをかなり取りこぼします。
平将門公は、ただ「祟るから怖い」と語られてきた人物ではありません。
朝廷を相手に関東で独自の勢力を築き、その死から千年以上経った今も、人々から祀られ続けている人物です。
単なる「日本三大怨霊」ではない東国の英雄
平将門公が生きたのは、平安時代の前半です。
当時の関東は、現在のように東京を中心とした地域ではありません。
中央の朝廷から見れば遠い東国で、地方の有力者たちが土地や権益をめぐって争っていました。
将門公も、そうした関東に勢力を持った桓武平氏の一族です。
やがて一族内の争いから戦いが広がり、将門公は関東各地で勢力を拡大していきます。
後に「平将門の乱」と呼ばれる大事件です。
ただ、中央から見た「朝敵」という評価だけで将門公を語ることはできません。
現在の茨城県坂東市は、将門公を「坂東の風雲児」として紹介しています。
今も市内には、石井営所跡や國王神社、胴塚など多くのゆかりの場所が残されています。
もし将門公が「昔の反逆者」としてしか記憶されていなかったなら、千年以上後の現代に、これほど多くの史跡や信仰が残っているでしょうか。
見る立場が変われば、歴史上の人物の姿も変わります。
朝廷側から見れば反乱を起こした人物。
東国側では、中央の権力に立ち向かった英雄的な人物として語られてきた側面もあります。
「怨霊」という一言だけでは、とても収まりきらない人物なんです。
朝廷に反旗を翻し「新皇」を称したと伝わる桁違いの存在
将門公を語るうえで外せないのが、「新皇」です。
939年、将門公は関東で勢力を拡大するなか、自らを「新皇」と称したことが史料に伝えられています。
現代の感覚だと、この言葉の重さは少し分かりにくいかもしれません。
でも当時の日本で、朝廷とは別に「新しい皇」を名乗る。
これは地方武士同士の争いとは、かなり次元の違う話です。
中央とは別の権力を東国に打ち立てようとした、と受け止められるほどの行動でした。
当然、朝廷側も放置できません。
940年、藤原秀郷や平貞盛らとの戦いで、将門公は命を落とします。
國王神社の由緒では、最終決戦の地は現在の茨城県坂東市岩井周辺と伝えられています。
普通なら、反乱を起こして討たれた人物の物語は、そこで終わってもおかしくありません。
ところが将門公の場合、むしろ死後の物語のほうが長く続きました。
討たれてなお、千年以上にわたり祀られ続けてきた
坂東市の國王神社では、現在も平将門命が祭神として祀られています。
神社に伝わる由緒では、将門公の死後、その娘が父を弔い、像を刻んで祀ったことが始まりとされています。
将門公は、史書の中だけに残った人物ではありません。
今も実際に神として手を合わせられている存在です。
ここは将門公の話をするとき、忘れたくないところです。
「祟る」「怖い」「触ったら危険」。
そういう話は刺激的ですし、怪異伝承もたくさんあります。
でも、それだけなら恐怖の対象で終わります。
実際には、祀る人がいて、供養する人がいて、史跡を守る人がいて、それが何世代にもわたって続いてきました。
恐れられているだけではない。
忘れられてもいない。
時代が変わっても、その名前と存在感が残り続けています。
私はこうした姿を見ると、「怨霊」というより非常に強い存在感を持った偉人霊という表現のほうがしっくりきます。
もちろん「偉人霊」は歴史学上の分類ではありません。
あくまで今回のオカルト的な見方の中での表現です。
それでも、千年以上もの時間を越えて人の記憶と信仰に残る人物というだけで、ただ者ではありません。
なぜ今も人々は将門公を畏れ、敬い、手を合わせるのか
将門公について調べていくと、「怖いから避ける」と「敬意を持って祀る」がきれいに分かれていないことに気づきます。
畏れる。
だからこそ粗末にしない。
敬う。
だからこそ手を合わせる。
強い力を持つと考えられた存在を遠ざけるのではなく、きちんと祀り、鎮め、守っていく。
将門公もまた、そうした畏敬の対象として長い時間を生き続けてきたのでしょう。
怖いから敬うのではなく、これほど長く人々が敬ってきた存在だから、軽々しく扱わない。
順番はこちらだと思います。
そして将門公の名前に今も独特の緊張感がある理由は、それだけではありません。
将門塚には昔から、「粗末に扱ったあとに妙なことが起きた」という話が何度も残されています。
しかも、それはSNS時代になって突然作られた怪談ではありません。
将門公を粗末に扱ったあとに何かが起こる――そんな話は今回が初めてではない
ここから少し空気が変わります。
将門公が現在まで畏れられている背景には、「日本三大怨霊」という肩書きだけでは説明しきれない伝承があります。
将門塚を粗末に扱ったあと、なぜか良くない出来事が続いた。
そんな話が長く語られてきたんです。
もちろん、ここから紹介する出来事についても、「将門公の祟りだった」と証明されたわけではありません。
病気には病気の原因があります。
事故には事故の原因があります。
ただ、不思議なのは、その後に人々が取った行動です。
異変が起きる。
将門塚との関係が噂される。
そして最後には、将門公を鎮め、敬う方向へ人々が動いていく。
この流れが、今回だけではないんですよね。
将門塚に残る「動かしてはいけない」という伝承
現在の将門塚は、東京・大手町という一等地にあります。
周囲を高層ビルに囲まれた光景を見ると、「よくここだけ残ったな」と感じる人もいるでしょう。
東京の街は、この千年で何度も姿を変えてきました。
大火もありました。
震災もありました。
戦争もありました。
大規模な再開発も繰り返されています。
それでも将門塚は残っています。
そして、その過程では何度も「ここはむやみに動かさないほうがいい」という話が語られてきました。
東京のど真ん中です。
土地利用だけを考えれば、「ここまでまとめて使いたい」と考える人が出ても不思議ではありません。
ところが将門塚には、単純な再開発の論理だけでは処理しきれない物語が、ずっとついて回りました。
その代表的なものが、関東大震災後の話です。
関東大震災後の整地と、その後に語られた大蔵省関係者の異変
1923年、関東大震災によって東京は甚大な被害を受けました。
当時、将門塚周辺にあった大蔵省庁舎も被災します。
震災後、大蔵省は焼け跡を整理する中で、将門塚周辺の整地を進めました。
その後、その場所には仮庁舎が建てられます。
ここまでは震災後の復旧というだけの話です。
ところが、そのあと。
庁舎で働く人々の間に病人やけが人が相次ぎ、幹部にも死亡者が出た。
そんな話が広がっていきます。
そして人々の間で囁かれたのが、「将門公の祟りではないか」という噂でした。
今ならSNSで一気に拡散しそうな話ですが、これは現代のネット怪談として作られたものではありません。
昭和初期の新聞にまで登場しています。
1928年には、大蔵省で将門公の霊を鎮める祭りが行われたことが当時の新聞で報じられました。
つまり少なくともその時代、「塚を整地したあと異変が続き、将門公を鎮める祭りを行った」という物語が、新聞になるほど広まっていたわけです。
祟りが本当に存在したかどうかは、分かりません。
ただ、国の役所で働く人々まで「将門公をきちんとお慰めしよう」と動くほど、その存在が重く受け止められていた。
その事実は、やはり興味深いですよね。
昭和にも続いた鎮魂と将門公への畏敬
さらに時代は進みます。
第二次世界大戦後、東京は再び大きく姿を変えていきました。
将門塚保存会が伝えている保存史には、戦後、この一帯で工事が行われた際の出来事も残されています。
工事中にブルドーザーが転覆し、その付近から将門塚の「しるし」が見つかったという話です。
そこで地元の古老が、そこが将門公の首塚であり、触れないほうがよい場所だと説明した。
その後、関係者の働きかけにより、塚は取り壊されず残ったと伝えられています。
これも、「将門公の力でブルドーザーが転覆した」と証明された話ではありません。
事故は事故として考えるのが自然です。
ただ、また似た構図が出てきます。
塚に手を加えようとする。
妙な出来事が起きる。
そして、人々が将門公を畏れて塚を守る。
一度だけなら、「そういう偶然もある」で終わります。
似た話が何度も積み重なると、その場所そのものに独特の空気が生まれてくるんですよね。
なぜ「将門塚を粗末にすると何かが起こる」という話は消えないのか
ここまで来ると、一つ疑問が出てきませんか?
なぜ将門塚の怪異だけは、こんなにも長く語り継がれるのでしょう。
心理的な説明はいくらでもできます。
人は、印象の強い出来事同士を結びつけて意味を見つけたくなるものです。
悪いことが起きたとき、その直前に「やってはいけないこと」があれば、両方を結びつけたくなる。
それ自体は不思議ではありません。
ただ、将門塚の場合、その物語が一世代で消えていません。
震災を経験した世代。
戦後を経験した世代。
高度成長期を生きた世代。
そしてSNSを使う現代の私たち。
時代がまるで違うのに、「将門公の場所だけはふざけて触らないほうがいい」という感覚が残っています。
ここまで来ると、祟りを信じるかどうかだけの話ではない気がします。
何世代もの人が「ここは大切にしておこう」と考えてきた、その畏敬そのものが将門塚を守ってきたとも言えるでしょう。
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怖いからではない――将門公への敬意だけは忘れたくない
ここまで将門塚にまつわる伝承を追ってくると、どうしても「将門公は怖い」「触れたら祟られる」という印象が強くなります。
でも、そこで終わらせるのは違う気がします。
将門公への敬意は、祟りを恐れる気持ちとは少し違うからです。
怖いから近づかないのではなく、長い時間をかけて人々が守ってきたものだから粗末にしない。
本来は、それだけで十分です。
現代だから「迷惑配信」と炎上で済んだ
今回の件は、現代的な言葉でまとめれば「迷惑配信」です。
映像が拡散される。
SNSで批判される。
本人側が謝罪する。
所属先から処分が発表される。
いかにも今の時代らしい流れですよね。
ただ、場所が場所です。
将門塚は、単なる観光スポットではありません。
今も供養と信仰が続く場所であり、平将門公を大切にする人たちにとっては、現在も意味を持ち続けています。
そこで石碑によじ登り、奇声を上げる。
これを「ちょっと悪ふざけが過ぎた」で済ませるには、かなり無理があります。
祟りがあるかどうか以前に、他人が大切にしているものを踏みにじらない。
話は、本当はそれだけなんです。
世が世なら、笑い話では終わらなかったかもしれない
少し想像してみてください。
今のようにスマホもSNSもない時代に、同じようなことをしたらどうだったでしょう。
将門公への畏敬が今よりずっと身近で、信仰の場に対する緊張感も強かった時代です。
そこで供養の場によじ登り、大声を上げる。
少なくとも、周囲が笑って撮影するような空気ではなかったでしょう。
もちろん、「昔なら即切腹」「斬首された」といったことを史実として言うつもりはありません。
時代や身分、具体的な行為によって扱いは変わります。
ただ、「世が世なら、ただの炎上では終わらなかったかもしれない」という感覚は、それほど不自然ではないでしょう。
現代では「迷惑行為」として処理できても、昔の人が同じ光景を見れば、かなり青ざめたかもしれません。
祟りを恐れる前に、千年以上守られてきた信仰の場を敬うということ
オカルトの話は、どうしても刺激の強い方向へ行きがちです。
「祟られるぞ」
「触ったら終わり」
「将門公を怒らせた」
確かに、そういう言葉は目を引きます。
でも、この記事で伝えたいのはそこだけではありません。
祟られるかどうかに関係なく、敬うべき場所は敬う。
それが一番自然だと思います。
将門公を信仰していなくても構いません。
霊の存在を信じなくても構いません。
オカルトを全部「気のせい」と考える人でも問題ありません。
ただ、その場所を大切にしてきた人がいることは事実です。
歴史を守ってきた人がいることも事実です。
今も静かに手を合わせる人がいます。
それなら、こちらも静かに頭を下げればいい。
難しい話ではないんですよね。
豪雨と地震は将門公からの「警告」だったのか
最後に残るのは、やはりこの疑問です。
将門塚での騒動後に続いた豪雨と地震は、平将門公からの「警告」だったのでしょうか。
まず現実の話から始めます。
大雨は気象現象です。
地震は地下で発生した地震現象です。
将門塚での行為と、その後の豪雨や地震を結びつける科学的な証拠はありません。
「将門公がお怒りになったから雨が降り、地震が起きた」と事実として言うことはできません。
ここは、オカルトを楽しむうえでも線を引いておきたいところです。
ただ、科学的に説明できることと、出来事の並びに妙な符合を感じてしまうことは別なんですよね。
一つひとつは説明できる――それでも時系列にすると妙に残る
もう一度、最低限の流れだけ並べてみます。
8月19日、将門塚で問題の配信。
20日ごろからSNSで炎上。
21日、さいたま市で記録的な豪雨。
22日、東京・埼玉で100mmを超える猛烈な雨。
23日午前2時、茨城県南部でM5.9の地震。
豪雨には豪雨の説明があります。
地震には地震の説明があります。
将門塚騒動にも、それぞれ人間側の経緯があります。
全部別々です。
それでも、
「将門塚」
「その直後の記録的豪雨」
「道路冠水や浸水」
「翌深夜の地震」
「茨城県南部」
「将門公ゆかりの土地」
と一列にすると、どうでしょう。
頭では偶然だと分かっているのに、「ちょっと出来すぎていないか」と感じてしまう。
今回の話がこれほど人を引きつけた理由も、ここにある気がします。
「怒り」ではなく“警告”だったと考えると妙に収まりがいい
ここから先は、完全にオカルトとしての想像です。
豪雨では実際に浸水や道路冠水などの被害が出ています。
地震でも負傷者や交通、ライフラインへの影響が報じられています。
だから、災害を「面白い出来事」として軽く扱うつもりはありません。
そのうえで、もし一連の出来事に何らかの意味を見いだすなら。
私は「将門公が激怒して人間を罰した」という見方より、「忘れるな」「粗末に扱うな」という警告だった、と考えるほうがしっくりきます。
将門公を強大な存在として敬うなら、むやみに人を害するだけの存在として描くのも違う気がするからです。
空が荒れる。
街が水に浸かる。
そして翌深夜には地面が揺れる。
その結果、SNSでは再び平将門公の名前が広がり、将門塚について調べる人が増える。
「あの場所であんなことをするものではない」と、改めて語られる。
もし目的が「気づかせること」だったなら。
そう考えた瞬間、数日間の出来事が妙に一本につながって見えてしまうんですよね。
偶然か、それとも――信じるか信じないかは、あなた次第です
もちろん、ここまでの出来事には全部、現実的な説明をつけられます。
配信者が将門塚で問題行為をしたこと。
関東で局地的な豪雨が発生したこと。
その後、茨城県南部で地震が起きたこと。
そして、その周辺地域と平将門公に歴史的な縁があること。
別々の出来事が、たまたま近い時期に重なった。
そう考えれば終わりです。
おそらく、それが一番合理的な答えでしょう。
でも世の中には、合理的な説明を聞いたあとでも、なぜか心に引っかかる出来事があります。
今回も、そんな出来事の一つなのかもしれません。
偶然と言えば、偶然です。
警告と言われれば、そんな気もしてきます。
私に言えるのは一つだけです。
もし将門塚を訪れる機会があれば、私は静かに手を合わせます。
祟られるのが怖いからではありません。
千年以上、人々が忘れずに敬い続けてきた平将門公に、そのくらいの敬意は払いたいからです。
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よくある疑問
将門塚はどこにある?
将門塚は、東京都千代田区大手町にあります。
高層ビルが立ち並ぶ都心の一角にありながら、平将門公を供養する場所として現在まで守られてきました。
一般的な観光スポットというより、今も人が手を合わせる歴史・信仰の場として考えたほうが自然です。
平将門公の本拠地は現在のどこ?
平将門公と特に縁が深い場所の一つが、現在の茨城県坂東市周辺です。
坂東市には石井営所跡、國王神社、延命院の胴塚など、将門公ゆかりの史跡が数多く残されています。
「将門公=東京の首塚」という印象が強いですが、生涯をたどると茨城との深いつながりが見えてきます。
8月21日・22日の豪雨は本当に記録的だった?
はい。
8月21日には、さいたま市付近で1時間に約110mmの猛烈な雨が解析されました。
さいたま市の最終報では、床上浸水3件、床下浸水3件、道路冠水48件が確認されています。
翌22日は、板橋区付近で1時間120mm以上、北区・豊島区・戸田市付近でも100mm級の猛烈な雨が解析されています。
戸田市も、この大雨による被害について、り災証明書・被災証明書の申請受付を開始しています。
ただし、こうした豪雨と将門塚騒動に科学的な因果関係はありません。
今回の地震と平将門公に科学的な関係はある?
現時点で、両者を結びつける科学的な証拠はありません。
2026年8月23日の地震は、茨城県南部の地下で発生した地震として地震学的に説明されています。
「将門塚で不敬な行為があったから地震が起きた」と事実として断定することはできません。
この記事で扱っているのは、因果関係の証明ではなく、出来事の時期や場所を並べたときに感じる「妙な符合」です。
将門塚には本当に「祟り」の伝承がある?
はい。
ただし、「祟りの実在が証明されている」という意味ではありません。
将門塚をめぐっては、関東大震災後の整地のあと、大蔵省関係者の病気やけが、死亡などが相次ぎ、「将門公の祟りではないか」と噂されたという伝承があります。
その後、1928年には将門公を鎮める祭りが行われたことも当時の新聞で確認されています。
「将門塚を粗末にすると何かが起こる」という話そのものは、SNS時代に突然生まれた怪談ではありません。
最後に――偶然だと笑う前に、敬意だけは忘れたくない
ここまで追ってきた一連の出来事に、本当に平将門公の意思が関わっていたのか。
その答えを証明することはできません。
将門塚で不敬と受け取られる行為があった。
その後、関東で記録的な豪雨が相次いだ。
そして4日後、茨城県南部でM5.9の地震が起きた。
科学的に見れば、それぞれ別々の出来事です。
たまたま時期が重なっただけ。
そう考えるのが一番合理的でしょう。
それでも、千年以上前に生きた一人の人物の名前が、2026年の今になってこれほど多くの人の口から語られる。
私はむしろ、そこに平将門公という存在の大きさを感じます。
朝廷に背いた武将。
東国の英雄。
恐ろしい怨霊。
そして今も神として祀られる存在。
どの姿から将門公を見るかによって、印象はかなり変わります。
ただ一つ変わらないのは、千年以上ものあいだ、人々がその名を忘れず、祀り、供養し、場所を守り続けてきたという事実です。
だから、祟りを信じる必要はないと思うんです。
オカルトを笑うのも自由です。
今回の豪雨と地震を「全部ただの偶然」と考えるのも、もちろん自由です。
でも、誰かが長い時間をかけて大切にしてきた場所へ行ったなら、少しだけ静かにする。
そこに祀られている存在へ、少しだけ頭を下げる。
それくらいでいいのではないでしょうか。
少なくとも私は、将門塚の前で度胸試しをしたいとは思いません。
まして、石碑によじ登って奇声を上げようとも思いません。
理由は単純です。
平将門公に敬意を払いたいからです。
そしてもし、あの数日間に何か別の意味があったのだとしたら。
「私を恐れろ」ではなく、
「忘れるな。そして敬意を忘れるな」
そんな言葉だったのかもしれません。
もちろん、これはオカルトとしての想像です。
偶然だったのか。
それとも、何かの警告だったのか。
その先は、読者のみなさんにお任せします。
信じるか信じないかは、あなた次第です。
参考リンク
- 気象庁|令和8年8月23日02時00分頃の茨城県南部の地震について
- さいたま市|8月21日の大雨による市内の状況等について(最終報)
- 戸田市|8月22日の大雨に関するり災証明書等について
- 一般社団法人 史蹟将門塚保存会|平将門公・将門塚
- 坂東市公式ホームページ|将門公と史跡
- キッカーズ公式サイト|キッカーズ2軍 愛之助 脱退処分のお知らせ
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース|平将門公の慰霊祭に関する調査記録
なお、平将門公の「祟り」と今回の豪雨・地震との因果関係について、科学的に確認された事実はありません。
この記事では、史実・公的に確認できる情報と、伝承・オカルトとして楽しむ内容を分けて紹介しています。






