小学校の体育館には、子どもにとって少し気になる場所がある。
ステージの裏側や、舞台の下にある引き戸。普段はあまり使われない扉の向こうには、学校行事で使う椅子や道具がしまわれているのだろう。そう思いながら、一度くらい覗いてみたくなった経験はないだろうか。
ところが、その引き戸を少し開けた先に、オレンジ色の光に照らされた、廃墟のようなアスファルト道路があったという話がThreadsに投稿された。
道路には、ぐにゃりと曲がった標識まで立っていたという。学校の体育館の下にあるはずもない風景だ。
奇妙なのは、投稿者自身がその道路へ入ったわけではないことだった。
周囲の景色が変わったとも、人の姿が突然消えたとも書かれていない。いつもの体育館に立ったまま、ステージ下の引き戸を少し開け、向こうを覗いた。それだけなのである。
しかも、話はその先へ進まない。
投稿は、もう二度とそこを覗けなかったという言葉で終わっている。
この短い体験談には、自分も奇妙な風景を見たことがあるというコメントや、子どもの頃に繰り返し見た不思議な夢の話が寄せられた。なかには景色がオレンジ色になったという話もあれば、家具の隙間から、そこに見えるはずのない場所が見えたという記憶もある。
さらに過去のネット怪談を調べると、人の消えた学校や、突然オレンジ色に変わった風景についての記録が、今回の投稿以前から存在していた。
今回は、Threadsに寄せられた話と過去の掲示板記録をたどりながら、これらの怪談がどこで似ていて、何が違うのかを考えてみたい。
後半では、子どもの頃の奇妙な記憶が鮮明に残る理由や、一つの投稿に似た体験談が集まる現象についても、心理学の研究を手掛かりに見ていく。
ただし、奇妙な記憶があることと、本当に別の世界が存在したことは同じではない。怪談としての面白さを味わいながら、確かめられた記録と、まだ分からない部分を分けて追いかけよう。
体育館のステージ下に異世界があった? Threadsの奇妙な体験談
話の舞台は、小学校の体育館である。
投稿者は子どもの頃、体育館で遊んでいるときに、ステージ下の引き戸を見つけた。学校行事で使うパイプ椅子でも入っているのだろうと思い、少し開けて覗いてみたという。
特別な場所を探検していたわけではない。誰も知らない山奥や、地図にない駅へ向かったわけでもない。どこの学校にもありそうな場所から始まるところに、この怪談の妙な怖さがある。
パイプ椅子があると思って開けた引き戸
まず、発端となった投稿の内容を整理しておこう。
投稿者が小学生だった頃のこと。
学校の体育館で遊んでいると、ステージの下に引き戸があるのを見つけた。
そこには、式典などで使うパイプ椅子がしまわれているのだろう。そう思って、引き戸を少し開け、隙間から中を覗いてみたという。
しかし、その向こうに見えたのは、椅子が並ぶ収納スペースではなかった。
オレンジ色の光に照らされた、朽ち果てたアスファルト道路。廃墟のように荒れた風景の中には、ぐにゃりと曲がった道路標識まであったという。
投稿者は、その先に入ったとは書いていない。その後、同じ引き戸を再び覗くこともできなかったと語っている。
※Threads元投稿の提供記録を記事用に要約。公開ページの原文との最終照合は未完了
出典:Threads @senmendennushi の投稿
この話を読んで最初に気になるのは、体育館の構造ではないだろうか。
体育館のステージ下が収納場所になっていること自体は、特に不思議ではない。学校の舞台には、行事で使う椅子や机、舞台道具などをしまう場所が設けられていることもある。
投稿者も、そこに何か特別なものが隠されているとは考えていなかったらしい。
それだけに、引き戸の向こうにアスファルト道路があったという描写は、強い違和感を残す。
道路は建物の外にあるものだ。もちろん、特殊な構造の建物や、道路に面した地下空間が絶対に存在しないわけではない。しかし、小学校の体育館のステージ下に、荒廃した道路と曲がった標識が見えたという話は、普通に考えれば辻褄が合わない。
そして、学校の所在地も、当時の体育館の構造も分かっていない以上、実際にどのような空間だったのかを確かめることはできない。
ここで、もう一つ気になることがある。
異世界怪談というと、いつもの電車に乗ったはずが知らない駅へ着いたり、街を歩いていたら突然誰もいなくなったりする話を思い浮かべるかもしれない。
ところが今回、投稿者は別の場所へ移動したとは語っていない。
少なくとも投稿文にある範囲では、ずっと体育館の中にいたのである。
異様な風景が見えたのは、引き戸を開けた向こう側だけだった。この違いは、あとで過去の怪談と比較するときに重要になってくる。
オレンジ色の光、朽ちた道路、曲がった標識
見えたという風景も、単に「知らない場所だった」というだけではない。
アスファルト道路は朽ち果て、道路標識はぐにゃりと曲がっていた。
どちらも、私たちが普段から目にする人工物だ。道路標識は交通のルールを示すために立てられ、アスファルト道路は車や人が通るために整備される。
ところが、今回の投稿に登場するのは、そうした日常の風景が壊れてしまったような景色である。
長いあいだ使われていない道路なのか。何かの事故や災害のあとだったのか。それとも、単にそのように見えたのか。
投稿文には、荒廃した理由まで説明されていない。
そのため、未来の日本や、人類がいなくなった世界を連想することはできても、それらは読み手の想像にとどまる。元投稿が、未来や世界の滅亡を語っているわけではない。
そして、この道路を照らしていたというのが、オレンジ色の光だった。
ここは、後に紹介する別の怪談と区別しておきたいところだ。
今回の投稿に書かれているのは、道路を照らすオレンジ色の光であって、空全体がオレンジ色だったという描写ではない。
夕焼けのような光だったのか、人工照明だったのか、それとも別の何かだったのかは分からない。
また、体育館の内部までオレンジ色に変わったとは書かれていない。
その一方で、道路と標識の描写は、具体的だ。朽ちたアスファルト、ぐにゃりと曲がった標識、オレンジ色の光。たったこれだけの要素でも、読者の頭には不気味な風景が浮かび上がる。
異世界だと説明されるよりも、見慣れたものがあり得ない位置に現れる方が、かえって気味が悪い。
この怪談が印象に残る理由の一つは、そこにあるのだろう。
「もう二度と覗けなかった」の理由は分からない
もう一つ、この投稿には気になる部分が残されている。
最後に、投稿者は二度とその場所を覗けなかったと語っている。
だが、その理由は説明されていない。
怖くてもう一度開ける気になれなかったのか。それとも、その後は同じ場所に行く機会がなかったのか。あるいは別の事情があったのかもしれない。
いずれも想像することはできるが、今ある資料から判断することはできない。
引き戸が消えてしまった、二度と開かなくなった、学校の建物そのものが変わっていた、といった出来事も、提供された投稿文には書かれていない。
物語の続きを勝手に補えば、いくらでも恐ろしい話にできるだろう。しかし、そうした演出を加えてしまうと、投稿者が実際に語った内容から離れてしまう。
- 学校名と所在地
- 体験した年代や正確な時期
- 当時の体育館とステージ下の構造
- 道路のように見えたものの正体
- 投稿者以外の目撃者がいたかどうか
- 投稿者が再び引き戸を覗けなかった理由
これらが不明であるため、体育館の下に道路が実在したと判断することはできません。
ただ、怪談として読んだとき、この説明のない結末はなかなか強い。
もし投稿に続きがあり、翌日もう一度開けたら普通のパイプ椅子が並んでいた、と語られていたなら、話の印象はかなり違っていただろう。
ところが、今回の記録には、そうした再確認の場面がない。
残るのは、小学校の体育館というありふれた場所と、引き戸の向こうに見えたという道路の記憶だけだ。
そして、この投稿を読んで、自分にも似た経験があると思い出した人たちがいた。
次はコメント欄を見てみよう。元投稿と同じオレンジ色の世界を語る人もいれば、まったく別の形で日常の空間がおかしくなったという人もいる。
オレンジ色の世界を見た人も? コメント欄の奇妙な体験談

今回のThreads投稿には、怖いという感想や、もう一度覗いてほしかったという反応だけでなく、自分も不思議な体験をしたことがあるというコメントが寄せられていた。
中には、元投稿と同じオレンジ色の景色を見たという人もいる。ただ、詳しく読んでいくと、それぞれの体験の内容は少しずつ違っている。
風景そのものが変わったという話もあれば、何かに引き込まれたという話もある。さらに、家の中のわずかな隙間から、本来は見えるはずのない景色を見たという記憶まで登場する。
どれも日常の感覚では説明しにくい話だが、似た要素があることと、同じ出来事が起きたことは別である。
まずは、普段と変わらない場所が突然別の世界のようになったという話から紹介しよう。
突然、人が消えて景色がオレンジ色になった
@irm_sakiさんは、これまでに何度か、異世界のような体験をしたことがあるとコメントしている。
いつもと変わらない場所にいたはずが、突然、周囲の様子が変わる。そこにいた人たちの姿が見えなくなり、景色がオレンジ色になるという。
知らない場所へ出かけたわけではない。普段見ているはずの世界が、あるとき急に違って見える。そんな体験として語られている。
※Threadsコメント欄の提供記録を記事用に要約。個別コメントの原文照合は未完了
出典:Threads元投稿のコメント欄(@irm_saki)
体育館の話と並べると、オレンジ色という共通点がまず目に留まる。
けれども、そこで起きたと語られている異変は同じではない。
体育館の投稿者が見たというのは、引き戸の向こうでオレンジ色の光に照らされた道路だった。一方、こちらの体験談では、体験者自身を取り囲む景色が変わり、周囲の人まで見えなくなっている。
その場所自体が普段とは違う世界になってしまったように感じられるという点では、後に紹介する「時空のおっさん」の怪談とも共通している。
ただし、このコメントだけで、実際に周囲から人が消えたことや、何らかの異常な現象が起きたことを確認できるわけではない。
今回分かるのは、そのような体験が本人の言葉で語られているということだ。
それでも、同じオレンジ色の描写が、別の形の体験談に登場するのは気になる。
では、景色が変わるのではなく、自分自身が何かに引き込まれる場合はどうだろう。
緑色の渦に引き込まれ、壁の向こうへ
別のコメントでは、小学生の頃に経験したという、まったく違う色の現象が語られていた。
@yonpさんは、小学生の頃、突然現れた緑色の渦のようなものに引き込まれたと語っている。
さらに、壁を通り抜けるような体験もしたという。
周囲の景色を眺めていただけではなく、自分自身が何かに引っ張られ、普段なら通り抜けられない場所を越えたように感じたという体験談である。
※Threadsコメント欄の提供記録を記事用に要約。学年や体験後の経過などの細部は原文照合後に確定
出典:Threads元投稿のコメント欄(@yonp)
こちらには荒廃した道路も、オレンジ色の光も登場しない。
その代わり、緑色の渦に吸い寄せられ、壁を通り抜けるような感覚が語られている。
体育館の投稿者は引き戸のこちら側にいたが、この話では体験者自身が空間の境界を越えたように感じている。どちらも現実の場所で起きたという形で語られてはいるものの、体験の内容は大きく異なる。
また、渦のようなものが何だったのか、壁を通り抜けたように感じた理由が何だったのかも、コメントの記録だけでは分からない。
こうした出来事を語る本人にとっては、強い印象を残した経験なのだろう。しかし、第三者がその原因を考えるには、当時の状況など、さらに多くの情報が必要になる。
ここまでの二つは、いかにも異世界体験談らしい話だった。
ところが次のコメントに登場するのは、もっと身近な場所である。家の中にある冷蔵庫の脇の隙間だ。
冷蔵庫の隙間から、あり得ない景色が見えた
@arakabu_cookingさんは、子どもの頃、家の冷蔵庫の脇にある隙間から、隣の家の様子が見えていたという記憶を語っている。
ところが、大人になってから家の構造を考えてみると、そこから隣家が見えるはずはなかったという。
当時は確かに見えていたと思っている景色が、今の自分にはどうにも説明できない。
そんな幼少期の記憶として紹介された話だ。
※Threadsコメント欄の提供記録を記事用に要約。個別コメントの原文照合は未完了
出典:Threads元投稿のコメント欄(@arakabu_cooking)
この話には、廃墟も奇妙な色の光も出てこない。
それなのに、体育館の引き戸とどこか似ている。
共通しているのは、建物の中にある小さな隙間から、本来は見えないはずの場所が見えたという点だ。
ステージ下の引き戸と、冷蔵庫の脇。場所はまるで違うが、どちらもわざわざ探検へ出かけるような場所ではない。
普段の生活の中で、何気なく目を向けてもおかしくないところである。
そして、見えたもの自体も、決して突飛なものではない。
片方は道路、もう片方は隣の家。どこにでもありそうな景色なのに、そこに見えたとなると、建物の構造と辻褄が合わなくなる。
もちろん、この記憶だけで、冷蔵庫の隙間が実際に別の空間へつながっていたとは言えない。
幼い頃の見え方や、後年の記憶、建物に対する理解など、考えるべきことはいくつもある。ただし、当時の家の構造や周囲の状況を確かめられる資料がなければ、何が原因だったのかを特定することも難しい。
それでも、これまでのコメントと比べると、怪談の怖さが必ずしも派手な現象から生まれるわけではないことに気づく。
奇妙な渦が現れたり、街中から人が消えたりしなくてもいい。
何の変哲もない家具の隙間から、そこにあるはずのない景色が見える。それだけでも十分に不思議な話になる。
こうして3件を並べると、同じ「異世界体験」という言葉でまとめてしまうには、ずいぶん違う話だと分かる。
景色全体が変わるもの。身体が引き込まれるもの。そして、隙間の向こうに別の場所が見えるもの。
共通する印象はあっても、同じ現象の証言が3件集まったという意味ではない。
その一方で、一つの投稿を読んだ人たちが、それぞれ異なる記憶の中に似たものを見つけていることは分かる。
さらにコメント欄を読み進めると、今度は夢の話が現れる。
階段や家具の隙間から、知らない部屋へ行く夢だ。
そこにも、体育館の引き戸を思い出させるものがあった。
階段やタンスの隙間も入口に? 夢に現れる知らない場所
子どもの頃に見た夢で、なぜか今でも覚えているものはないだろうか。
実際に訪れたことのない部屋なのに、間取りを覚えている。どこかへ行くための通路があって、夢の中では当たり前のようにそこを使っていた。
今回のThreads投稿には、そんな不思議な夢についてのコメントも寄せられている。
体育館の話を現実の目撃体験として語る元投稿とは違い、こちらは本人が夢だったと説明しているものだ。ただ、知らない場所への入口が、階段や家具の隙間など、ありふれたところに現れるのが興味深い。
さらに、眠りに落ちる直前に、身体が宇宙のような空間へ引き込まれる感覚を覚えたという人もいた。
夢、入眠直前の感覚、そして現実の出来事として語られる体験談。それぞれの違いに注意しながら見ていこう。
子どもの頃に何度も見た、別の部屋へ行く夢
@saku_1214さんは、子どもの頃、同じような不思議な夢を繰り返し見ていたという。
夢の中では、階段のある場所をきっかけに、普段とは違う空間へ行ける。さらに、タンスと壁の間にある隙間を通ると、別の部屋へ移動できたそうだ。
普段の家にもありそうな階段や家具が、夢の中では知らない場所へ続く通路になっていた。
※Threadsコメント欄の提供記録を記事用に要約。階段の段数などの細部は原文照合後に確定
出典:Threads元投稿のコメント欄(@saku_1214)
階段やタンスの隙間というのが、妙に具体的だ。
どちらも実際の家にあるなら、ごく普通の場所である。けれども夢の中では、そこを通ることに特別な意味があり、別の部屋へ行くための道順になっている。
知らない場所へ行く夢であっても、その入口が具体的な形で記憶に残っているわけだ。
体育館の投稿者が語ったのは、引き戸の向こうを覗く体験だった。一方、この夢では、その境界を通って別の場所へ移動する。
両者は同じではないが、建物の中の何気ない場所が、知らない空間につながるという構造は似ている。
そして、別のコメントにも、家の中から不思議な部屋へ行く夢が登場する。
@shiho_2891さんも、子どもの頃に繰り返し見ていた夢について語っている。
その夢では、パイプのような通り道を抜けると、別の場所へ行くことができたという。
たどり着いた先にあったのは、緑色の畳が印象的な、居心地のよい和室だったそうだ。
荒廃した道路でも、誰もいない街でもない。むしろ、落ち着ける場所として覚えていることが、この夢の特徴である。
※Threadsコメント欄の提供記録を記事用に要約。個別コメントの原文照合は未完了
出典:Threads元投稿のコメント欄(@shiho_2891)
知らない空間へ行く夢といっても、そこが必ず恐ろしい場所とは限らない。
緑色の畳がある和室というのは、オレンジ色の廃墟とは対照的だ。
夢の中で、いつもの家から秘密の部屋へ行ける。そんな体験なら、怖さよりも懐かしさを覚える人もいるかもしれない。
今回の二つの夢には、もう一つ共通点がある。
見知らぬ場所だけでなく、そこへ行く道順まで語られていることだ。
階段のある場所を通る。家具の隙間を抜ける。パイプの中へ入る。
夢の中の出来事なのに、こうした細部が記憶に残っているという。
もちろん、夢の中で別の部屋へ行けたことから、実際に家のどこかに秘密の空間が存在したと考える必要はない。
ただ、普通の家の中に知らない場所への道が隠れているというイメージが、複数の人の夢の話に登場するのは興味深い。
そして、こうした夢の話は、体育館の怪談と比較したときにも、重要な違いを教えてくれる。
現実に見たという話と、夢だったと明言された話とでは、最初から体験の性質が違うのである。
同じ「異世界」という言葉でまとめてしまえば、この違いは見えにくくなってしまう。
では、完全に眠っているときではなく、眠りに落ちる直前には、どのような不思議な感覚が起こり得るのだろうか。
眠る直前、宇宙へ引き込まれるような感覚
@uk.sky828さんは、眠りに落ちる直前、宇宙のような広い空間へ身体が引き込まれていくような感覚を経験したと語っている。
その感覚には強い怖さが伴っていたという。
知らない部屋へ続く入口を夢に見たという話とは違い、こちらは眠りに移る途中の、身体ごと引っ張られるような感覚についての体験談である。
※Threadsコメント欄の提供記録を記事用に要約。体験時期・回数などの詳細は原文照合後に確定
出典:Threads元投稿のコメント欄(@uk.sky828)
この話に登場するのは、引き戸でも階段でもない。身体ごとどこかへ引っ張られていくような感覚だ。
そして「眠りに落ちる直前」という条件が、ほかのコメントとの大きな違いになっている。
睡眠と覚醒の境目には、実際には存在しない光景が見えたり、音が聞こえたり、身体が落ちる、浮かぶといった感覚を覚えたりする場合がある。
こうした現象は、入眠時幻覚(hypnagogic hallucinations)として知られている。
米国の医療機関Cleveland Clinicも、眠りに移る途中に起きる知覚体験として、視覚的なイメージや浮遊・落下する感覚などを紹介している。
例えば、眠りかけたときに急に身体が落ちるように感じたり、目を閉じているのに鮮やかな光景が現れたりすることがある。
本人には強く印象に残る感覚でも、必ずしも外の世界で同じ出来事が起きているとは限らない。
ただし、眠る直前に不思議な感覚があったというだけで、このコメント投稿者が入眠時幻覚を経験していたと断定することはできない。
詳しい状況を確認しないまま、個人の体験に特定の診断名を付けるのは適切ではないからだ。
また、この説明を、そのまま体育館の元投稿に当てはめることもできない。
元投稿では、学校の体育館で遊んでいたときの出来事として語られている。眠りに落ちる直前だったという説明はない。
参考:Cleveland Clinic「Hypnagogic Hallucinations」
似た話でも、体験の性質は同じではない
ここまで紹介したコメントを振り返ると、異世界という言葉でひとまとめにするには、ずいぶん違う体験が並んでいることに気づく。
景色が変わったという記憶もあれば、何かに引き込まれたという話もある。家具や階段から別の部屋へ行く話は、本人が夢だったと説明していた。眠りに落ちる直前の感覚を語る人もいた。
体験したとされる状況も、そこで起きたと語られる出来事も違う。
共通するイメージがあるからといって、同じ現象だと考えることはできない。
一方、こうした話を続けて読んでいると、ある特徴が浮かんでくる。
知らない世界へ行くために、遠くまで旅をする必要はない。いつもの家や学校の中に、普段とは違う場所へつながる入口がある。
その入口が、引き戸だったり、冷蔵庫の隙間だったり、夢の中の階段だったりする。
見知らぬ世界そのものよりも、そこへつながる場所が妙に身近なところにある。そのことが、今回の体験談を読んだ人たちの記憶を刺激したのかもしれない。
ただし、実際に何をきっかけにコメントを書いたのかまでは、本人に尋ねなければ分からない。
それでも、学校や家という日常の場所が、突然知らない空間へつながるというイメージが、これらの話を結び付けているように見える。
では、こうした怪談は最近になって生まれたものなのだろうか。
過去のネット掲示板をたどると、2000年代にはすでに、見慣れた場所が突然別の世界のようになるという話が残されていた。
次は、その記録を年代順に追ってみよう。
「オレンジ色の異世界」は以前からあった? 時空のおっさんとの共通点

体育館の引き戸の向こうに、オレンジ色の光に照らされた荒廃した道路が見えた。
今回のThreads投稿には、そんな不思議な体験が語られていた。コメント欄にも、周囲の景色が突然オレンジ色になったという話や、普段の生活では説明しにくい場所を見たという記憶が寄せられている。
では、こうした話は最近になって現れたものなのだろうか。
過去のインターネット掲示板をたどると、2000年代にはすでに、人の消えた大学や学校、普段とは違う色になった街を舞台にする怪談が語られていたことが分かる。
その代表例の一つが、ネット都市伝説として知られる「時空のおっさん」である。
ただし、現在知られている「時空のおっさん」の特徴が、最初からすべて揃っていたわけではない。古い投稿を順番に読んでいくと、後の話とは違う部分も見えてくる。
2005年に遡る「時空のおっさん」の初期記録
「時空のおっさん」という名前を聞いたことがあるだろうか。
ある日突然、いつも歩いている街や学校から人の姿が消え、そこで見知らぬ中年男性に出会う。男性は、なぜそこに入り込んだのかと問いただしたり、元の場所へ戻るよう促したりする。
細かな展開は投稿によって異なるが、日常の場所から人が消えることと、正体不明の男性が現れることが、この怪談のよく知られた特徴だ。
都市伝説研究家の朝里樹氏は、『webムー』の記事で、この種の話の初期記録を2005年7月21日付の2ちゃんねる投稿まで遡って紹介している。
その投稿は、2006年2月に立てられた専用スレッドにも転載されており、現在はまとめWikiから内容を確認できる。
ただ、初期の話を実際に読んでみると、現在広く知られている「時空のおっさん」のイメージとは、少し違った印象を受ける。
話の投稿者は大学生の男性。ある朝、寝坊して午前10時頃に目を覚ましたものの、大学は自宅から近かったため、普段どおり身支度をして出かけたという。
大学に到着したのは10時24分。しかし、構内には人の姿が見当たらなかった。
授業中だからだろうと思って教室へ向かってみたが、講義が行われているはずの教室にも誰もいない。教室を間違えたのかと確認しても、場所は合っている。
妙だと思っていたところに、携帯電話が鳴った。
着信画面に表示されていたのは、見覚えのない「NOBODY」という英字。電話に出ると、男性の声が聞こえた。
相手は、投稿者がなぜそこにいるのかを問いただし、どうやって入り込んだのかと怒っている様子だったという。
男に外を見るよう言われ、投稿者は教室のベランダからグラウンドを見下ろした。すると、中央に中年男性が一人で立っている。その男性も携帯電話のようなものを耳に当てていた。
電話の相手が、あそこにいるのではないか。
そう考えていると、男性は投稿者の方を向き、ポケットに手を入れた。
危険を感じて教室から逃げようとした瞬間、身体が引き伸ばされるような、奇妙な感覚に襲われたという。
そして次に気づいたとき、投稿者は自宅のベッドにいた。
時計は午前8時を指していた。大学に行ったはずの時刻よりも前に戻っている。
夢だったのかと思ったが、朝に食べたはずの前日の夕食の残り物は冷蔵庫からなくなっており、使った食器も台所に置かれていたという。
投稿者は、大学のグラウンドに立っていた男性が、時間を管理するような存在だったのではないかと考えた。ただ、その男性の顔や声は、はっきりと思い出せなかったそうだ。
※2005年7月21日付の掲示板投稿を記事用に要約。参照先は2006年のスレッドに転載された記録
出典:新・時空のおっさんまとめ Wiki「時空のおっさん 1」
人が消えた大学、正体不明の男性、そして出発する前の時刻へ戻っているという結末。後の「時空のおっさん」につながる要素が、すでに見られる。
一方、今回の体育館の話との共通点を探すなら、区別しておきたいことがある。
この2005年付の初期投稿には、オレンジ色の空も、荒れ果てた道路も登場しない。
投稿者が経験したと語っているのは、人のいない大学であり、元の世界へ戻ったと思われるまでの奇妙な出来事だ。体育館のように、引き戸の向こうだけに別の風景が広がっていたわけではない。
現在の「時空のおっさん」という名前から連想される特徴を、すべて最初の投稿に当てはめるのは正確ではないのである。
ただ、見慣れた場所が突然、見慣れない場所になってしまうという不気味さは共通している。
しかも、この話では、単に周囲から人が消えただけでなく、時間まで食い違っている。
自宅から大学へ向かい、確かにそこで行動したはずなのに、気づくと出発前の時刻に戻っていたという。残り物や食器の状態まで描かれているのは、投稿者自身が「夢だったのではないか」という疑問を抱いていたことと関係しているのだろう。
もっとも、食器や冷蔵庫の状態を第三者が確認した記録ではない。あくまで投稿者が、奇妙な体験を説明するために挙げた内容である。
その後、「時空のおっさん」と呼ばれる話はさまざまな形で語られていく。
そして2011年には、今回のThreads投稿を思い出させる、もっと直接的な共通点を持つ怪談が書き込まれていた。
舞台は大学ではなく、小学校だった。
2011年、学校が突然オレンジ色になった怪談
2011年4月29日、2ちゃんねるの「時空のおっさん 5」に、一人の投稿者が小学生の頃の出来事を書き込んでいる。
本人によれば、体験したのは投稿の約20年前。小学2年生だった夏の話だという。
今回の体育館の投稿と同じく、特別な場所へ出かけたときの話ではない。学校で普段どおり過ごしていたとき、周囲の様子が突然変わってしまったというのである。
暑い夏の日。投稿者は同級生と話をしながら、体育の授業へ向かっていた。
校内では蝉が鳴いていた。プールには上級生たちがいて、賑やかな声や水音が聞こえている。いつもの学校の風景だった。
ところが、プールの横にある通路に差しかかった瞬間、周囲の景色が突然オレンジ色に変わったという。
砂漠の砂を思わせるような、埃っぽいオレンジ色だった。
先ほどまで一緒に歩いていた同級生は、誰もいなくなっている。プールにいたはずの上級生も見えない。さらに、蝉の声や水音まで聞こえなくなっていた。
それでも投稿者は、すぐに異世界へ迷い込んだとは思わなかったそうだ。
もともと忘れ物や聞き間違いが多かったため、また自分だけ授業に遅れてしまったのではないかと考えたという。
先生に叱られるのが嫌で校庭へ急いだが、そこにも誰もいない。体育館を覗いてみても無人だった。
授業の場所を間違えたのかもしれない。
そう考えながら教室へ戻ろうとして、中庭の池の近くに、しゃがんでいる男性を見つけた。
男性は紺色の長袖ジャージを着ていた。真夏なのに暑くないのだろうかと思ったところで、投稿者は自分自身も暑さや寒さを感じていないことに気づいたという。
男性は、なぜここにいるのか、何年生なのかと投稿者に尋ねた。そして元の場所へ戻る必要があることを告げ、後ろを向かせて肩を軽く押した。
その途端、蝉の鳴き声とプールの水音、児童たちの声が一斉に戻ってきた。景色もいつもの色に戻り、投稿者は同級生たちと一緒に、先ほどの通路を歩いていたという。
友達に、自分が何をしていたか尋ねてみると、黙って歩いていたと言われたそうだ。
後日、あの男性が学校の用務員だったのではないかと思い、用務員室を訪ねてみた。しかし、そこにいたのは別の年配の男性で、用務員は自分一人だけだと説明されたという。
※2011年4月29日付の掲示板投稿(レス639~641)を記事用に要約。参照先は掲示板記録の再録
出典:新・時空のおっさんまとめ Wiki「時空のおっさん 5」
この話を読んで、体育館のThreads投稿を思い出した人もいるのではないだろうか。
舞台は小学校。そして、オレンジ色という特徴的な色彩が登場する。
2011年の話では、景色が変わるだけでなく、蝉の声や水音まで消えている。学校そのものは同じ場所にあるのに、そこで聞こえるはずの音と、いるはずの人が見当たらない。
普段の学校の様子が細かく語られているからこそ、その突然の変化が際立つ。
ただし、今回の体育館の話と、まったく同じ描写ではない。
2011年の怪談でオレンジ色になったのは、投稿者を取り囲む風景そのものだった。一方、今回のThreads投稿に書かれているのは、引き戸の向こうの道路を照らすオレンジ色の光である。
また、2011年の投稿には体育館も登場するが、投稿者がそこで見たのは誰もいない体育館だった。ステージ下に荒廃した道路が広がっていたという話ではない。
同じ学校、同じオレンジ色、そして体育館という言葉まで登場するため、二つの話を結び付けたくなる。しかし、具体的な出来事を比較すると、違いは決して小さくない。
さらに、この2011年の投稿には見逃せないところがある。
話を書き込んだ本人が、自分の体験と、すでに知られていた「時空のおっさん」の怪談との違いを挙げているのだ。
男性に出会った点は似ているものの、場所は元の学校のままだったこと、男性が怒っていなかったこと、携帯電話を使っていなかったことなどを、投稿者自身が説明している。
既存の怪談を知ったうえで、そこに似ているところと違うところがあると感じたのだろう。少なくとも、投稿文にはそうした比較が含まれている。
ここで、年代についても整理しておきたい。
確認できる2011年4月29日というのは、掲示板への投稿日だ。出来事が起きたという約20年前の時期は、本人の回想に基づく。
1990年前後に学校でそのような出来事があったことを裏付ける資料ではないし、この話を「オレンジ色の異世界」の最古の記録と断定することもできない。
それでも、2011年の時点で、学校がオレンジ色に変わり、人や音が消えるという内容の怪談が投稿されていたことは、再録資料から確かめられる。
この話は、今回の体育館の投稿より前に存在した類似例として、十分に比較する価値があるだろう。
そして、こうした体験談は、その後も別の形で語られていく。
2019年には、別々の体験談が「時空のおっさん」と結び付けられていた
2019年6月5日、5ちゃんねるの異世界関連スレッドに、子どもの頃の奇妙な記憶についての長い投稿があった。
こちらにもオレンジ色の世界が登場する。ただし、学校の話とは違い、舞台は祖父母の家だ。
そして、この話では奇妙な出来事そのものだけでなく、投稿後に交わされた読者とのやり取りにも注目したい。
投稿者は、子どもの頃、岡山県にある母方の祖父母の家へ泊まりに行ったときの出来事を語っている。
夏休みで、親戚も集まっていた。夕食を終えたあと、投稿者は妹や従姉たちと2階の部屋でゲームボーイのテトリスをしていたという。
やがて妹たちは飲み物を取りに階下へ降りていき、投稿者は一人でゲームを続けていた。
しばらくして自分も喉が渇いたため、1階へ向かったところ、さっきまで聞こえていた家族や親戚の声が聞こえない。
台所にも居間にも誰もおらず、家の中を探しても家族が見つからなかった。
不安になって玄関から外へ出ると、今度は外の景色までおかしくなっていた。
夜の9時頃だったというのに、空がオレンジ色だったのである。
それだけではない。停まっているはずの家族や親戚の車がなくなり、隣に建っていたはずの家まで見当たらなかった。
怖くなった投稿者は2階の部屋へ戻り、再びゲームを始めた。
すると、やがて階段から足音が聞こえてきた。戻ってきた従姉から、どこへ行っていたのかと問いただされたという。
投稿者としては、ずっと家の中にいたつもりだった。ところが家族の側は、姿が見えなくなった投稿者を探していたらしい。
さらに投稿者は、この出来事の翌日以降、家族の車や母親が好んで聴いていた音楽など、以前の記憶と食い違うものが現れたとも語っている。
あのオレンジ色の夜を境に、自分は別の世界へ来てしまったのではないか。投稿者は、そんな疑問を抱いていたという。
※2019年6月5日付の掲示板投稿を記事用に要約。参照先は掲示板記録の再録であり、体験内容の真偽は未確認
出典:新・時空のおっさんまとめ Wiki「異世界総合2」
同じオレンジ色でも、2011年の学校の怪談とはずいぶん違う話だ。
学校の話では、男性に肩を押されたあと、景色や音が元に戻ったと語られている。一方、2019年の投稿者は、その後の周囲の様子まで以前と違っていると感じていた。
家族の車や母親の好んでいた音楽というのも、妙に生活感のある細部だ。
もし本当に以前と違っていたとしても、それが何を意味するのかは慎重に考える必要がある。記憶の食い違いなのか、ほかの事情があるのか、今回の資料では分からない。
そもそも車や音楽についての記述も、投稿者本人の記憶と認識に基づくものであり、異世界へ移ったことを示す客観的な証拠ではない。
それでも、この話の興味深いところは、体験談の真偽だけではない。
投稿されたあとに交わされた、別の利用者とのやり取りである。
その体験談を読んだ人物が、投稿者に「時空のおっさん」を知っているかと尋ねている。
人がいなくなることや、空の色がおかしくなることなど、既存の怪談との共通点を見つけたのだろう。
これに対して投稿者は、その話を初めて聞いたと返答し、自分が見たというオレンジ色の夜について説明していた。
実際にその投稿者が以前から「時空のおっさん」を知っていたかどうかは、本人の申告以上には確認できない。
ただし、掲示板のやり取りから確かめられることはある。
一人が語った体験を、別の読者がすでに知られている怪談と関連付けていたということだ。
ここには、都市伝説が広がっていく過程を考えるうえで、見逃せないものがある。
怪談は、必ずしも一つの完成された物語として生まれ、そのまま広まるわけではない。
誰かが不思議な出来事を語る。それを読んだ別の人が、以前に知った話との共通点を見つける。やがて、もともとは別々に語られていた体験談が、一つの系列の怪談として読まれるようになることもある。
今回のThreads投稿のコメント欄も、少し似た構造を持っている。
体育館の引き戸の話を読んだ人が、オレンジ色の風景や、家具の隙間から別の場所が見えたという記憶を語る。夢だったという話まで集まっている。
もともとは別々の経験なのに、一つの投稿の下に並ぶと、どこか共通するものがあるように感じられる。
だからといって、これらの体験が本当に同じ原因で起きたと分かったわけではない。過去の怪談を知っていたために似た話を書いたのか、それとも独立した記憶なのかも、現在の資料だけでは判断できない。
それでも、年代の異なる投稿を比べることで、怪談の読み方が少し変わってくる。
「似た話がこんなにある」ということだけでなく、どの部分が似ていると受け取られ、何が同じ怪談として結び付けられてきたのかにも目を向けられるからだ。
では、今回紹介した2005年、2011年、2019年の怪談と、体育館のThreads投稿は、どこまで似ているのだろうか。
ここで改めて比較してみると、むしろ今回の投稿には、ほかの話と違う特徴があることに気づく。
それは、投稿者が異世界へ迷い込んだとは語っていないことだ。
異世界に迷い込むのではなく、覗いてしまった――今回の怪談の違い
2005年の「時空のおっさん」、2011年のオレンジ色の学校、2019年のオレンジ色の夜。
これらの怪談では、見慣れた場所から人が消えたり、周囲の景色が変わったりしていた。いつもの大学や学校、祖父母の家が、突然知らない場所になってしまうのである。
体育館のThreads投稿にも、同じような不気味さがある。学校という舞台も、オレンジ色の描写も、過去の話と共通している。
しかし、元投稿をもう一度読むと、見過ごせない違いがある。
投稿者は、異世界へ迷い込んだとは書いていない。
ここからは、似ている部分を探すのではなく、それぞれの体験談がどのような場所で、どのように展開しているのかを比較してみたい。
世界が変わる怪談と、引き戸の向こうが変わる怪談
2005年の大学の怪談では、投稿者が構内を歩き回り、人のいない教室やグラウンドの男性を目撃している。
2011年の小学校の話では、周囲がオレンジ色に変わり、投稿者は誰もいない学校の中を移動していた。
2019年の体験談でも、家の中から人が消え、外へ出ると車や隣家まで見当たらなくなっていたという。
この3件では、体験者のいる場所そのものがおかしくなっている。
それに対して、体育館の投稿者が語っているのは、ステージ下の引き戸を少し開け、その向こうを覗いたという出来事だ。
見えたのは荒れ果てたアスファルト道路と、曲がった道路標識。風景はオレンジ色の光に照らされていたという。
しかし、体育館全体が廃墟になったわけではない。学校から人が消えたとも、投稿者自身がその道路を歩いたとも書かれていない。
元投稿の範囲では、異様な風景が見えたのは引き戸の向こうだけだった。
| 比較する点 | 過去の3つの怪談 | 体育館のThreads投稿 |
|---|---|---|
| 異変の起きた場所 | 大学・学校・家と、その周囲 | ステージ下の引き戸の向こう |
| 体験者の位置 | 異変が起きた空間の中 | 体育館側 |
| 人が消える描写 | いずれにも登場 | 記載なし |
| 異様な空間での移動 | 登場する | 記載なし |
| 帰還や周囲の回復 | 話によって異なる | 帰還の描写なし |
見慣れた日常から、知らない場所へ入り込んでしまう怪談としては、2004年にネット掲示板へ投稿された「きさらぎ駅」も知られている。
いつもの電車に乗っていたはずが、存在しない駅へ到着してしまう。こちらも、体験者自身が普段とは違う場所に置かれる話だ。
この怪談については、きさらぎ駅の2004年の元スレと、その後20年以上にわたる変化を追った記事で、最初の投稿に書かれていたことと、後から語られるようになった設定を分けて紹介している。
もちろん、比較表は今回調べた代表的な3件と体育館の投稿を比べたものであり、すべての異世界怪談を二つの型に分けられるという意味ではない。
扉の向こうに別の世界があるという発想も、今回のThreads投稿だけのものではないだろう。
それでも、こうして並べると、体育館の話がどこで違っているのかが分かりやすい。
知らない世界へ行ってしまうのではない。
知っている世界に立ったまま、知らない世界らしきものを覗いている。
この違いが、今回の話に独特の後味を残している。
体育館と異世界は、引き戸一枚で隣り合っていたのか
体育館のステージ下という場所が、また絶妙である。
学校の体育館に舞台があり、その下に道具をしまう場所があっても、別におかしくはない。投稿者も、式典用のパイプ椅子でも入っているのだろうと思っていたという。
つまり、もともと不思議な場所を探していたわけではない。
そこに何があるか、何となく想像がつくような引き戸を、少し開けてみただけだった。
その向こうに見えたのが、アスファルト道路である。
もし家の押し入れを開けたら、知らない街へ続く道路が見えたとしたら、どう感じるだろう。
これはもちろん元投稿とは別の仮定だが、今回の怪談が持つ違和感を考えるには分かりやすい。
押し入れの向こうには壁があり、壁の向こうには隣の部屋や建物の外がある。私たちは、そんな空間のつながりを普段いちいち確かめたりしない。
体育館のステージ下も同じだ。引き戸の向こうには、体育館の構造に収まる場所があると考えるのが普通だろう。
ところが今回の投稿では、その当たり前のつながりが崩れている。
しかも、向こう側に見えたという道路や標識は、私たちがよく知っているものだ。理解できない形の建物や、名前もない奇妙な物体が出てきたわけではない。
道路も標識も、それ自体はありふれている。ただ、そこにあるはずがない。
この「知っているものなのに、知っている場所には存在しない」という食い違いが、話を妙に不気味にしているのではないだろうか。
見慣れた場所が、何かの拍子に知らない場所のようになってしまう。そんな話は、現代の街を舞台にした都市伝説にも見られる。
例えば、下北沢で語られるタイムリープ体験と噂の形成史を追った記事では、実在する街の風景や店の記憶が、時間移動や並行世界の物語と結び付けられていく過程を調べている。
下北沢の話で語られるのは、街そのものの時間がずれたように感じられる体験だ。一方、今回の体育館の投稿では、普段の場所に立ったまま、引き戸の向こうに異様な風景が見えたという。
どちらも、見慣れた場所が突然理解しにくくなる話だが、その奇妙さの現れ方は違っている。
そして、今回のThreads投稿に寄せられたコメントにも、少し似た記憶があった。
冷蔵庫の脇の隙間から、家の構造上は見えるはずのない隣家が見えたという話である。
ステージ下の引き戸と、冷蔵庫の脇。場所は違うが、どちらも日常の建物の一部から、そこにつながるはずのない場所が見えたという構造を持っている。
そこに登場するのも、道路や隣の家といった見慣れた景色だ。
派手な怪物や不可思議な装置が現れなくても、普通の景色が普通ではない場所に現れるだけで、十分に不気味な話になる。
もっとも、これらの投稿だけで実際に空間がつながっていたとは言えない。
体育館の構造も、冷蔵庫の隙間があった家の詳しい状態も、今回の資料では確認できない。本人の記憶だけでは、何が見えていたのかを再現することも難しい。
それでも、一つの怪談として読んだとき、日常のすぐ隣に知らない場所があるという発想は、なかなか忘れがたい。
そして、見慣れた世界の境目が不確かになるという感覚は、現代のネット怪談だけに見られるものでもない。
逢魔が刻――昔から語られてきた、日常と異界の境目
ここからは怪談の原因を探すのではなく、私たちが日常のどこに「境界」を感じてきたのかを、少し別の角度から考えてみたい。
日本には、夕暮れの薄暗い時間帯を指す「逢魔が刻(おうまがとき)」という言葉がある。
昼でも夜でもないような時刻に、怪しいものと出会う。そんなイメージとともに語られる言葉だ。
もっとも、今回の体育館の投稿には、引き戸を開けた時刻が書かれていない。オレンジ色の光も、夕日だったと分かったわけではない。
だから、ここで逢魔が刻を持ち出したからといって、体育館で起きたという出来事の説明になるわけではない。
ただ、夕暮れには、普段見慣れているものが少し違って見えるという感覚がある。
そのことを考えるうえで興味深いのが、民俗学者・柳田國男の随筆『かはたれ時』だ。
柳田は1930年に発表したこの文章の中で、黄昏を表す言葉について考察している。
例えばタソガレは「誰そ彼は」であり、カハタレは「彼は誰」であった。
どちらも、そこにいる相手が誰なのかを尋ねる言葉だ。
柳田は、昔の人々の衣服や村での暮らしに触れながら、薄暗い時間になると、近づいてくる人物が知り合いなのか、見知らぬ人なのか、簡単には見分けられなかったのではないかと考えている。
昼間なら顔を見れば分かる相手でも、薄暗くなるとそうはいかない。足音が近づいてきても、声を交わすまでは誰なのか分からない。
柳田はさらに、昔の人々が旅人と鬼を、ともに警戒を要する存在として迎えていたことにも言及している。
ここで書かれているのは、夕暮れになると実際に異世界への入口が開くという話ではない。
見慣れた人や風景を、いつものようには認識できなくなる。そんな薄暗い時間の感覚である。
これを体育館の怪談と直接結び付けることはできないし、現代の異世界怪談が逢魔が刻から生まれたと示す資料もない。
それでも、少し似た問いを見つけることはできる。
夕暮れの道では、近づいてくる相手が誰なのか分からない。
体育館の引き戸の話では、そこが本当に知っているはずの場所なのか分からなくなる。
当たり前だと思っていたものが、ある瞬間から当たり前でなくなる。
そんな感覚が、昔の言葉にも、現代の怪談にも、それぞれ違った形で現れているのかもしれない。
さて、ここまで読んでくると、別の疑問も残る。
今回のThreads投稿も、過去の「時空のおっさん」の話も、ずいぶん昔の出来事として語られていた。
にもかかわらず、道路標識の形や景色の色、学校で出会った男性の服装など、細かな特徴が記憶に残っているという。
私たちは、子どもの頃の出来事をどのように覚えているのだろう。そして、鮮明に思い出せるということは、その記憶が正確だという意味なのだろうか。
次は、心理学の研究を手掛かりに、この疑問を考えてみたい。
◯おすすめ記事
子どもの頃の奇妙な記憶は、なぜ鮮明に残るのか
体育館の引き戸の向こうに見えたという、オレンジ色の光に照らされた道路。朽ちたアスファルトと、ぐにゃりと曲がった道路標識。
今回のThreads投稿は、子どもの頃の出来事として語られている。それなのに、見えたという風景には、妙に具体的な特徴がある。
コメント欄にも、幼い頃の記憶がいくつも寄せられていた。冷蔵庫の隙間から見えたという隣家の景色や、繰り返し夢に現れた、知らない部屋へ続く通路などだ。
何十年も前のことなのに、ある場面だけは今でもはっきり覚えている。そんな経験は、決して珍しく感じられない。
ただ、ここで一つ考えてみたいことがある。
鮮明に思い出せることと、その出来事が実際に起きたことは、どこまで同じなのだろう。
「覚えていること」と「本当に起きたこと」の違い
例えば、幼い頃に家族旅行へ行ったことを、写真で知っている人がいるとしよう。旅行したのは確かだと考えていても、その日の景色や出来事は、ほとんど思い出せないかもしれない。
反対に、夢で訪れた街のことを、目が覚めてからも細かく覚えている場合がある。建物の並び方や道順まで浮かぶのに、実際にその場所へ行ったとは思っていない。
私たちが普段ひとまとめにしている「記憶」には、こうした違いがある。
2017年、心理学者のChris R. Brewin氏とBernice Andrews氏は、幼少期の出来事に関する偽の記憶を扱った研究を検討し、学術誌『Applied Cognitive Psychology』に総説論文を発表した。
この論文で重要なのは、ある出来事を実際に経験したと信じていることと、その出来事を具体的に思い出せることを、同じものとして扱っていない点だ。
自伝的信念(autobiographical belief)
ある出来事が、自分の過去に実際に起きたと考えていること。
回想体験(recollective experience)
出来事について、映像や感覚などを伴って思い出すこと。
記憶への確信(confidence in memory)
自分が思い出している内容を、どの程度正確だと考えているか。
この総説では、架空の出来事を提示された人が、その出来事を起きたと信じるようになっただけなのか、それとも具体的に回想するようになったのかを区別する必要があると論じている。
※Brewin & Andrews(2017)の研究内容を記事用に要約
出典:Creating Memories for False Autobiographical Events in Childhood: A Systematic Review
この区別を知っておくと、今回の怪談も少し違った角度から読める。
体育館の投稿者は、子どもの頃に見たという道路の様子を具体的に語っている。しかし、その場面を頭の中でどのように思い出しているのか、どれほど強く実際の出来事だと確信しているのかまでは、短い投稿からは分からない。
夢についてコメントした人たちも同様だ。夢の中の部屋を鮮明に覚えていることと、その部屋が現実に存在したと信じていることは違う。
ここで紹介した総説は、今回のThreads投稿者を調べた研究ではない。何が起きたのかを判定する材料というより、「覚えている」という言葉の中に、異なる要素があると気づかせてくれる研究なのだ。
そして、記憶について考えるときには、もう一つ重要な問題がある。
それは、私たちが覚えている情報について、どこから得たものなのかを判断する働きだ。
私たちは、記憶の出所を取り違えることがある
昔見た映画の一場面なのか。誰かから聞いた話なのか。それとも、自分がその場で見聞きした出来事なのか。
普段は大きく混同せずに生活しているものの、情報をどこで得たのか、どうしても思い出せないことはある。
何かの話を友人から聞いたことは覚えているのに、それが誰だったのか思い出せない。昔の出来事を覚えているつもりでも、後になって見た写真や映像が、記憶に重なっているかもしれない。
このような記憶の出所に関する判断を研究するのが、ソース・モニタリング(source monitoring)である。
1993年、Marcia K. Johnson氏、Shahin Hashtroudi氏、D. Stephen Lindsay氏は、学術誌『Psychological Bulletin』に「Source Monitoring」という論文を発表した。
ソース・モニタリングとは、覚えている情報が、どのような経験や情報源に由来するのかを判断する働きのことだ。
人は、記憶に伴う感覚的な細部や、出来事について考えた過程などを手掛かりに、それが実際に見たものなのか、想像したものなのか、他人から聞いたものなのかを判断している。
しかし、その判断が常に正確とは限らない。
論文では、目撃証言、既知感、他人の発想を自分のものと取り違える現象など、記憶の出所をめぐる幅広い研究が整理されている。
※Johnson, Hashtroudi & Lindsay(1993)の研究内容を記事用に要約
出典:Source Monitoring(Psychological Bulletin, 1993)
例えば、子どもの頃に見た怖い夢を、今でもよく覚えているとしよう。
夢の中で歩いた道や、そこで見た建物の形を思い出せることはある。それでも、夢だったと分かっていれば、現実にその場所へ行ったとは考えない。
記憶には風景が残っていても、その風景をどこで経験したと判断するかは別なのである。
一方で、時間が経つにつれて、どこで見聞きした情報なのか曖昧になることもある。体験の中身だけでなく、それがどこから来た記憶なのかという判断も、記憶を考えるうえでは重要だ。
もっとも、この仕組みを知ったからといって、体育館の投稿者が夢と現実を取り違えたことにはならない。
元投稿には、眠っていたという説明も、以前に似た話を聞いていたという説明もない。記憶の出所を誤って判断したと考える根拠は、現時点では見つかっていない。
心理学が教えてくれるのは、記憶が単なる映像の保存ではなく、思い出した内容の由来を判断する働きとも関係しているということだ。
鮮明な記憶だから正しい、とも限らない
ここまで読むと、「だったら、人間の記憶は簡単に作り替えられてしまうのでは」と思うかもしれない。
しかし、それも少し急ぎすぎた結論だ。
先ほど紹介したBrewin氏とAndrews氏の総説では、実際には起きていない幼少期の出来事を、成人に経験したと思わせようとする実験が検討されている。
研究者が架空の出来事を提示したり、家族から聞いた情報であるかのように伝えたり、繰り返し想像してもらったりする。そうして、実際には起きていない出来事について、どのような信念や回想が生じるのかを調べる研究だ。
結果は、単純ではなかった。
総説のうち、架空の幼少期の出来事を、家族からの情報などを使って経験したと思わせる「記憶植え込み法」の研究群では、何らかの回想体験が生じた参加者の割合は、加重平均で約47%だった。
ただし、この数字には、曖昧なイメージや部分的な回想も含まれる。
より厳しい基準で、確信を伴った十分な記憶として評価できるものに限定すると、その割合は加重平均で約15%となった。
47%と15%。同じ研究群について語っていても、何を「記憶ができた」と見なすかによって、数字は大きく変わる。
ここで注意したいのは、この研究が示しているのは、特定の実験条件と評価基準による結果だという点である。
人間の記憶が15%や47%の確率で間違うという意味ではないし、誰かに話を聞かされただけで、誰もが鮮明な偽の記憶を持つという結果でもない。
研究者たち自身も、偽の自伝的記憶は簡単に作り出せるという強い主張には慎重な姿勢を示している。
また、ここで検討されているのは、主に成人に幼少期の出来事を思い出してもらう実験だ。子どもがその場で経験した出来事を、どの程度正確に記憶するのかを直接測定した研究ではない。
今回の体育館の話を考えるうえでも、そこは混同したくない。
鮮明に覚えているのだから、道路は本当に存在したはずだ。
反対に、子どもの頃の奇妙な記憶だから、きっと夢か勘違いだったのだろう。
どちらの判断にも、今ある情報だけでは十分な根拠がない。
あのとき体育館で何が起きたのかを確かめるなら、学校の場所、当時の建物の構造、ほかの記録などが必要になる。しかし、今回の資料では、そこまで調べられる情報が揃っていない。
記憶研究は、この体験談に結論を与えてくれるわけではない。それでも、鮮明な思い出と客観的に確認できる出来事を区別することの大切さは、よく分かる。
さて、ここまでは一人ひとりの記憶について考えてきた。
今回のThreads投稿には、もう一つ気になる特徴がある。一人の奇妙な体験談を読んで、別の人たちが自分の記憶や夢を次々と語り始めたことだ。
他人の話を読むことは、自分の記憶を思い出したり、解釈したりすることに影響するのだろうか。
なぜSNSには、似た異世界体験が集まるのか
体育館のステージ下に、オレンジ色の光に照らされた道路が見えた。
そんな短いThreads投稿の下には、景色が突然変わった話や、緑色の渦に引き込まれた話、家具の隙間から別の場所が見えたという記憶が集まった。
子どもの頃に繰り返し見ていた夢まで含まれているのだから、体験したとされる状況は実にさまざまである。
それなのに、一つのコメント欄で続けて読んでいると、どこか共通する世界の話のように感じられる。
これは、同じ異世界を見た人たちが集まったということなのだろうか。
そう考える前に、他人の話に触れることと、自分の経験を思い出すことの関係を見ておきたい。
一つの怪談が、忘れていた記憶を呼び起こす
昔通っていた学校の話を聞いて、すっかり忘れていた教室の様子を思い出すことがある。
給食のにおいや廊下の床、放課後の体育館の薄暗さ。普段は考えもしないのに、誰かの一言で、昔の風景が頭に浮かんでくる。
今回のコメント欄でも、似たことが起きた可能性はある。
体育館の引き戸の話を読んだ人が、オレンジ色に変わった景色を思い出す。別の人は、子どもの頃に見た不思議な夢を思い出す。
もっとも、実際にそれがコメントのきっかけだったかどうかは分からない。本人に詳しく尋ねたわけではないからだ。
また、コメント欄を読むときには、もう一つ注意したいことがある。
自分にも似た体験があると思った人ほど、コメントを書こうとするだろう。一方、何も思い当たらなかった人や、読んだだけで通り過ぎた人の数は分からない。
そのため、似たコメントがいくつも集まったからといって、同じような体験が世の中でどれほど起きているのか、その割合を推定することはできない。
コメント欄は、あくまで投稿に反応した人たちの声が集まる場所だ。
ただ、そこに寄せられた話を読むと、思いがけない共通点を見つけることがある。投稿者自身は、ほかの人の体験を知らなかったかもしれない。それでも、後から並べて読む側には、似たものとして映る。
こうした現象を考えるには、二つの問題を分ける必要がある。
一つは、他人の話が自分の記憶に影響することがあるのかという問題。
もう一つは、別々の体験談が、読者によって一つの系列の怪談として理解されることがあるのかという問題だ。
まずは、前者について調べた心理学の実験から見てみよう。
他人の話が記憶に影響することはあるのか
2001年、Henry L. Roediger III氏、Michelle L. Meade氏、Erik T. Bergman氏は、学術誌『Psychonomic Bulletin & Review』に「Social contagion of memory」という論文を発表した。
日本語では「記憶の社会的伝染」と訳せる題名だ。
他人が口にした情報は、あとから自分で思い出す内容に影響するのだろうか。研究者たちは、その問題を実験で調べている。
方法も分かりやすい。参加者に台所などの風景を見せ、そのあとで、そこに何が置かれていたかを思い出してもらう。ただし、途中で別の人が、実際にはなかった物の名前を口にするのである。
研究者たちは、台所など家庭内の様子を写した6種類の場面を用意した。
参加者は研究協力者と一緒に、それぞれの場面を15秒または60秒間観察する。
その後、二人は場面に置かれていた物を交互に思い出していく。ただし、相手は一般の参加者ではなく、研究者の指示に従って発言する協力者だった。
協力者は、実際には写っていなかった物を、あたかもそこにあったかのように挙げる。
例えば、台所の場面について「トースターがあった」と話す。台所にあっても不自然ではない物だが、実際の場面には存在しなかった。
研究では、その場面にありそうな物だけでなく、結び付きが比較的弱い物も、誤情報として使われた。
その後、参加者は一人で、最初に見た場面について回答するよう求められる。
すると、協力者が挙げた実在しない物は、誰もその物に言及しなかった条件よりも、参加者自身の回答に現れやすくなった。
この影響は、観察時間が60秒だった場合より15秒だった場合に大きく、また、その場面にありそうな物ほど生じやすかった。
実際には見ていなかった物でも、他人がそこにあったと話したことで、あとから自分の記憶として報告される場合があったのである。
※Roediger, Meade & Bergman(2001)の実験内容と結果を記事用に要約
出典:Social contagion of memory(Psychonomic Bulletin & Review, 2001)
台所にトースターがあったと言われると、たしかに置いてありそうな気がする。そこが、この実験の面白いところだ。
実際に見た物を思い出そうとしていた参加者の回答に、他人の発言が入り込んでいる。
ただし、研究結果をそのまま「人は他人の話を聞くと簡単に記憶を書き換えられる」と言い換えることはできない。
この実験では、研究協力者があらかじめ決められた誤情報を与えている。参加者が覚える対象も、限られた時間だけ見た家庭内の風景だ。
幼少期の出来事を何十年も経ってから語る場合や、SNSで不思議な体験談を読む場合とは条件が違う。
また、あとから存在しない物を回答したからといって、参加者の頭の中に、その物の鮮明な映像ができたとまでは言えない。
では、今回のThreadsコメントでも同じことが起きたのだろうか。
その証拠はない。
コメントを書いた人たちが、元投稿を読む前に何を覚えていたのかは確認できない。誰かの話を読んだことで記憶が変わったのか、それとも以前から覚えていたことをそのまま語ったのかも分からない。
最初から夢だったと明言しているコメントもある。そうした話まで、偽の記憶として扱う理由はない。
今回の研究から考えられるのは、他人の語りと、自分があとから報告する記憶が、完全に独立しているとは限らないということまでだ。
これはコメント投稿者の話を否定するための研究ではない。体験談を読む私たちが、どこまでを確かな情報として扱えるのか考えるための手掛かりなのである。
そして、今回のコメント欄を考えるときには、実験とは別の現象にも目を向けたい。
記憶そのものが変わったという証拠がなくても、別々の体験談を読んだ人が、その中に共通するものを見つけることはあるからだ。
別々の体験が、一つの「異世界」の物語になっていく
ここで、2019年の掲示板に戻ってみよう。
祖父母の家で家族の姿が消え、外へ出ると夜空がオレンジ色になっていたという話だ。
その投稿を読んだ別の利用者は、「時空のおっさん」という怪談に似ていると指摘していた。
このやり取りは、先ほどの記憶実験とは性質が違う。
実験で調べられたのは、他人から与えられた誤情報が、後の回答にどう影響するかということだった。
一方、2019年の掲示板では、投稿済みの体験談に対して、読者が既存の怪談の名前を結び付けている。
つまり、確認できるのは、記憶の変化ではなく、語られた話の受け取られ方が変わる場面である。
人のいない街、オレンジ色の空、いつもの場所がおかしくなる感覚。こうした要素を知っていれば、新しい体験談に出会ったとき、以前に読んだ怪談を思い出しても不思議ではない。
似た部分を見つけた読者が、別々に語られた話を同じ系列の都市伝説として理解することもあるだろう。
こうした現象を考えるうえで、2003年に登場したネット怪談「くねくね」も参考になる。
「くねくね」は、最初から現在知られている特徴がすべて揃っていたわけではない。後から語られた似た話が関連付けられ、共通する特徴が整理される中で、怪異としてのイメージが形づくられていったと考えられる。
「くねくね」の2003年原典と、その後の怪談形成史を追った記事では、初期の記録と後年のイメージを分けて検証している。
くねくねは異世界体験談ではない。しかし、一つの怪談がどのように知られるようになり、別の話と関連付けられていくのかを考える材料にはなる。
もっとも、似た話があるからといって、必ずどちらかがもう一方を参考にしたとは限らない。
実際に物語同士が影響し合ったかどうかを確かめるには、投稿の先後関係だけでなく、投稿者が以前の話を知っていたかなども調べる必要がある。
今回のThreads投稿者が「時空のおっさん」を知っていたのか、2011年の学校の話を読んだことがあったのかは、確認できていない。
過去の怪談に影響を受けたと断定することも、完全に独立して生まれた話だと断定することもできない。
それでも、今回のコメント欄を眺めると、都市伝説が読まれていくときの面白い特徴が見えてくる。
最初にあったのは、体育館の引き戸の向こうに道路が見えたという短い話だった。
ところが、それを読んだ人たちは、オレンジ色の世界だけでなく、渦に引き込まれた体験や、家具の隙間から別の場所が見えた記憶、繰り返し見た夢まで語り始めた。
色が似ていたから思い出した人もいるかもしれない。建物の隙間という部分が、昔の記憶に重なった人もいるだろう。
そうして異なる話が一つの場所に並ぶと、読者はその中から共通点を見つける。
結果として、体育館の引き戸一枚の向こうにあったはずの奇妙な風景が、冷蔵庫の隙間や夢の中の通路、誰もいない夜の街にまで広がっていくように感じられる。
もちろん、これは実際に異世界が広がったという意味ではない。
一つの物語を読んだ人たちが、それぞれの記憶や知っている話を持ち寄ることで、共通するイメージが浮かび上がってくるということだ。
そして、そのイメージが次の怪談を読むときの手掛かりになることもあるかもしれない。
これまでの記録から考えられるのは、そうした語りのつながりであって、個々の投稿者の記憶が実際に変化したという証拠ではない。
では、最初の体育館の引き戸の謎は解けたのだろうか。
人が奇妙な記憶をどう思い出し、他人の話と結び付けて読むのかについては、いくつかの手掛かりが得られた。
しかし、投稿者があの日、引き戸の向こうに何を見たのかは、まだ分からない。
最後に、これまでの調査で確かめられたことを整理して、もう一度あの体育館へ戻ってみたい。
◯おすすめ記事
体育館の引き戸の向こうには、結局何があったのか
小学校の体育館で遊んでいたとき、ステージ下の引き戸を少し開けたら、オレンジ色の光に照らされた荒廃した道路が見えた。
今回のThreads投稿を出発点に、コメント欄に集まった記憶や夢、2000年代からネット上に残されてきた異世界怪談をたどってきた。
人が消えた大学や学校、オレンジ色に変わった風景。似た要素を持つ話は、今回の投稿以前から語られている。
また、記憶に関する研究からは、昔の出来事を鮮明に思い出せることと、その内容が正確であることを区別する必要があると分かった。他人から聞いた情報が、その後の記憶報告に影響する場合があることも、実験で確認されている。
では、こうした調査で体育館の引き戸の謎は解けたのだろうか。
残念ながら、そこまでは分からない。
確認できたことと、確認できなかったこと
今回確認した掲示板の再録資料には、2005年付の「時空のおっさん」の初期投稿、2011年のオレンジ色の学校、2019年のオレンジ色の夜についての記録が残されていた。
これらは、日常の場所から人が消えたり、風景の色が変わったりする怪談が、今回のThreads投稿より前からネット上で語られていたことを示している。
ただし、それぞれの体験が実際に起きたと確認できたわけではない。投稿者同士が過去の怪談を知っていたのか、互いに影響を受けていたのかも分からない。
心理学の研究についても同様だ。
記憶に誤りが生じる場合があることや、他人の発言が記憶の報告に影響し得ることは研究されている。しかし、それによって体育館の投稿者が何を見たのか、原因を特定できるわけではない。
調査で得られたのは、元投稿を理解するための比較材料と、記憶を考えるための手掛かりである。
- 提供されたThreads投稿の記録には、体育館の引き戸の向こうに荒廃した道路が見えたという体験談が含まれている。
- 提供されたコメント記録には、色の変わった風景、建物の隙間にまつわる記憶、不思議な夢などの話が寄せられている。
- 2005年付、2011年、2019年の掲示板記録を収めた再録資料には、今回の話と比較できる異世界怪談が残されている。
- 記憶の正確性や、他人からの情報が記憶報告に与える影響については、心理学の研究がある。
一方、学校がどこにあったのか、当時の体育館がどのような構造だったのか、引き戸の向こうに見えたという風景が何だったのかについては、確認できる情報が不足している。
学校名や場所が分からなければ、当時の建物の図面を探すことも難しい。投稿者以外に同じ場所を見た人がいたのかも、今回の記録からは分からない。
つまり、似た怪談や心理学の研究をいくら集めても、それだけで、あの日の体育館で何が起きたのかを再現できるわけではない。
そして、何より気になる最後の一文についても、理由は分かっていない。
「もう二度と覗けなかった」という結末
2005年の大学の怪談では、投稿者は人が消えた構内を歩いていた。2011年の小学校の話では、オレンジ色になった学校の中で謎の男性と出会っている。2019年の話でも、家族のいなくなった家を探し回り、外の風景まで確かめていた。
それに対して、今回の体育館の投稿者は、知らない道路へ入ったとは書いていない。
引き戸を少しだけ開けて、向こうを覗いたというのである。
道路はどこまで続いていたのか。ぐにゃりと曲がった標識には、何と書かれていたのだろう。オレンジ色の光がどこから差していたのかも気になる。
しかし、投稿にそこまでの説明はない。
そして最後に、投稿者はもう二度とそこを覗けなかったと記している。
怖くて開けられなかったのか。もう一度その場所へ行く機会がなかったのか。それとも、何か別の事情があったのか。
提供された投稿文からは、理由を確かめられない。
もし続きを語る投稿があって、もう一度開けたら普通のパイプ椅子が並んでいた、と分かったなら、この話の印象はずいぶん違っていただろう。
けれども、今回の資料にそんな続きはない。
残っているのは、見慣れた学校の体育館と、その下にあったという、見慣れない道路の記憶だけである。
異世界へ迷い込んだという話ではない。人のいない街を歩いたわけでも、謎の人物に導かれたわけでもない。
普段の学校で、何気なく引き戸を開けた。
その向こうに、あるはずのない景色が見えたという。
私たちは普段、扉や壁の向こうに何があるのか、わざわざ確かめたりしない。そこには当然、知っている世界の続きがあると思っている。
今回の怪談が印象に残るのは、その当たり前の感覚が、引き戸一枚で揺らいでしまうからなのかもしれない。
体育館の引き戸の向こうに、何があったのかは結局分からなかった。
それでも、あの短い投稿を読んだあとでは、見慣れた引き戸の向こう側を、少しだけ気にしてしまう。
よくある質問
体育館のステージ下にあったという奇妙な道路。ここまで、Threadsの体験談とコメント欄、過去の異世界怪談、記憶に関する研究を見てきた。
最後に、この話について特に気になる疑問を整理しておこう。回答は、元投稿に書かれていることと、今回の調査で確認できた記録に基づいている。体験そのものの真偽を断定するものではない。
体育館のステージ下に異世界があったという話は実話ですか?
Threadsで語られた体験談ですが、引き戸の向こうに実際に異世界が存在したと確認されたわけではありません。
提供された投稿の記録には、オレンジ色の光に照らされた荒廃した道路と、ぐにゃりと曲がった道路標識を見たという内容が残されています。
一方、学校の所在地や当時の体育館の構造、目撃した風景を裏付ける写真などは、今回の資料では確認できませんでした。
つまり、投稿者がそうした体験を語っていることは分かりますが、そのとき実際に何が起きたのかは別の問題です。現状では、体験談として紹介するのが適切でしょう。
オレンジ色の異世界は「時空のおっさん」と同じものですか?
似た要素はありますが、同じ現象や同じ物語だとは確認できません。
「時空のおっさん」には、普段の大学や学校から人が消え、謎の男性と出会う怪談があります。2011年には、小学校の景色が突然オレンジ色になったという話も投稿されていました。
しかし、今回の体育館の投稿では、体験者が知らない空間へ入り込んだとは語られていません。引き戸のこちら側に立ったまま、向こうの道路を覗いたという点が異なります。
また、元投稿にあるのは道路を照らすオレンジ色の光であり、空や学校全体がオレンジ色になったという描写ではありません。
共通する特徴はあっても、それぞれの話を混同しないことが大切です。
異世界が見えたという体育館の場所は特定されていますか?
今回の調査では、学校名や所在地を特定できませんでした。
元投稿では、小学生の頃に学校の体育館で遊んでいたと語られています。しかし、具体的な場所や体験した年代については、調査に必要な情報が不足しています。
そのため、特定の学校をこの怪談の舞台として紹介したり、実在する体育館の構造と直接比較したりすることはできません。
なぜ投稿者は、もう二度と引き戸を覗けなかったのですか?
理由は、提供された投稿文には書かれていません。
怖くてもう一度開ける気になれなかったのか、その場所へ行く機会がなくなったのか。それとも、別の事情があったのかは分かりません。
引き戸が消えた、二度と開かなくなったといった出来事も、投稿には記されていません。
この最後の一文が印象に残るのは、何が起きたのかを説明しないまま話が終わっているからなのかもしれません。
参考資料・出典
本記事では、Threadsに投稿された体験談を出発点に、過去の掲示板記録、民俗学の資料、記憶に関する心理学研究などを参照した。
ここでは、元投稿、掲示板の再録、研究論文、補助的な解説資料を分けて掲載する。特に掲示板の記録は、そうした内容の話が投稿されたことを確かめるための資料であり、語られた出来事が実際に起きたことを証明するものではない。
Threads元投稿・コメント欄
-
Threads @senmendennushi の投稿
体育館のステージ下に荒廃した道路が見えたという体験談。本記事では、元投稿とコメント欄について提供された記録を基礎資料として使用した。公開ページの原文および個別コメントとの完全照合は未完了。
「時空のおっさん」・異世界怪談の記録
-
新・時空のおっさんまとめ Wiki「時空のおっさん 1」
2005年7月21日付の初期投稿を含む再録資料。人の消えた大学、「NOBODY」からの電話、謎の男性の話を参照。
-
新・時空のおっさんまとめ Wiki「時空のおっさん 5」
2011年4月29日付の小学校の体験談を収録した再録資料。学校の景色がオレンジ色に変わり、人や音が消えたという記述を参照。投稿された日付と、体験したとされる時期は区別している。
-
新・時空のおっさんまとめ Wiki「異世界総合2」
2019年6月5日付のオレンジ色の夜の体験談と、「時空のおっさん」に関連付ける掲示板上のやり取りを参照。
-
『webムー』朝里樹「現代の天狗か? 異世界から送り還しを担う『時空のおっさん』の謎」
「時空のおっさん」の初期記録と、都市伝説としての広がりを紹介した解説記事。
民俗学・文化的背景
-
柳田國男『かはたれ時』(青空文庫)
1930年初出。黄昏を表す言葉と、薄暗い時間に人を見分けにくくなる感覚についての考察を参照。今回のThreads投稿の原因や、現代の異世界怪談との直接の歴史的関係を示す資料ではない。
記憶に関する心理学研究
-
Brewin, C. R. & Andrews, B.(2017)「Creating Memories for False Autobiographical Events in Childhood: A Systematic Review」
Applied Cognitive Psychology, 31(1), 2–23。幼少期の偽の自伝的記憶を成人に想起させる研究を検討した総説。記憶に対する信念・回想体験・確信の区別、記憶植え込み法の研究結果を参照。
-
Johnson, M. K., Hashtroudi, S. & Lindsay, D. S.(1993)「Source Monitoring」
Psychological Bulletin, 114(1), 3–28。記憶の出所を判断する仕組みに関する研究。
-
Roediger, H. L., Meade, M. L. & Bergman, E. T.(2001)「Social contagion of memory」
Psychonomic Bulletin & Review, 8(2), 365–371。他人が挙げた誤情報が、その後の記憶報告に及ぼす影響を調べた研究。
睡眠に関する補助資料
-
Cleveland Clinic「Hypnagogic Hallucinations」
眠りに落ちる途中に生じる視覚的・身体的な知覚体験についての医療解説。Threadsコメントに登場した入眠直前の感覚を考える補助資料として参照。
なお、心理学研究で確認されたのは、それぞれの研究条件における記憶や記憶報告の特徴である。今回紹介した個々の体験談の原因が、それらの研究によって特定されたわけではない。


